東勝寺橋は、鎌倉の中心を貫く若宮大路の東に並行する小町大路から谷戸へ分かれる路地を進んだ先にあるちいさなコンクリートアーチ橋です。
橋の名である「東勝寺」という寺は、この橋を越えた先にかつて存在した北条家の菩提寺のひとつで関東十刹にも数えられていましたが、時を経て衰退し、現在では廃寺となっています。
この東勝寺の旧跡には「高時腹切りやぐら」というやぐら(洞穴)があります。稲村ヶ崎から鎌倉へ攻め入った新田義貞の軍勢に圧され、時の十五代執権北条高時はこの東勝寺で火を放ち自害したことから、この地が鎌倉幕府終焉の地とされています。
橋の袂には石碑がひっそりと。
傍らには別の石碑が。これは戦前に鎌倉町(当時)の青年団が町内の名所旧跡各所に建立したもので、鎌倉市内ではいたるところで目にすることができます。
碑銘は「青砥藤綱旧跡」。
以下に碑文を写します。
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青砥藤綱舊跡
太平記ニ據レバ藤綱ハ北條時宗貞時ノ二代ニ
仕ヘテ引付衆ニ列リシ人ナルガ嘗テ夜ニ入リ
出仕ノ際誤ツテ銭十文ヲ滑川ニ堕シ五十文ノ
續松ヲ購ヒ水中ヲ照ラシテ銭ヲ捜シ竟ニ之ヲ
得タリ時ニ人々小利大損哉ト之ヲ嘲ル藤綱ハ
「十文ハ小ナリト雖之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼ
ン五十文ハ我ニ損ナリト雖亦人ニ益ス」旨ヲ訓
セシトイフ即チ其ノ物語ハ此ノ邊ニ於テ演ゼ
ラレシモノナラント傳ヘラル
昭和十三年三月建 鎌倉町青年團
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ここは幕府終焉の地であるだけでなく、鎌倉時代の役人青砥藤綱が、この場所で落としてしまった公金十文を探すために、五十文かけて松明を購入して探させたという逸話が残る地でもあるのです。
「十文を失うと天下の損失。たしかに五十文は自分にとっては損であるが、そのお金は他人を益する。」
という公人としての心構えを伝えるのでありました。
そして鎌倉市景観重要建築物としての説明看板。
さらに橋とは全く関係ありませんが、「藤沢土木出張所管理 延長二、〇〇〇粁」の記念碑も。
親柱をアップで。
欄干は、大正モダンともいえるシンプルながら凝ったデザイン。
橋の袂に立つ民家は、かつて澁澤龍彦が少年時代を過ごした家。その傍らに、もはや段差が磨耗して半ば坂道のようになった階段が、川床へ続いています。
川床から眺める東勝寺橋。「滑川」という川の名前の由来ともなった、岩盤の上を滑るように静かに流れる水。そして緩やかなカーブを描くアーチ橋…。
瀟洒な佇まいで、私にとっての鎌倉で一番お気に入りの場所です。
場所はこちら。