国道418号というと、岐阜県八百津町と恵那市の間にある丸山ダム湖沿いの区間が事実上の廃道区間となっており、道路・廃道愛好家では知らない人のいない存在です。
福井県大野市と長野県飯田市南信濃とを結ぶ全長243.3kmの路線には、丸山ダム湖沿いの「酷道」区間以外にも、国道157号との共用区間には有名な「落ちたら死ぬ!」看板が立てられていたり印象的な箇所が多いですが、それ以外の区間でも離合困難で狭隘な箇所が数多く存在しています。
岐阜県恵那市上矢作町から長野県平谷村を結ぶ区間にもそんな隘路が続いていますが、県境の程近く、岐阜県側最後の集落となる「海」集落の手前に、前後の区間とは不釣合いなほど高規格のトンネルが突如として現れます。これが「達原トンネル」です。
前後に狭隘な区間が続くところに突然高規格な橋梁や隧道が設けられている…といえばおおよそ想像がつくものと思いますが、この区間は災害復旧のために新設された区間です。
「道路情報」の電光掲示に、「通行注意 落石 上矢作町海~横道」と表示されることからも分かるとおり、現道区間でも落石などに遭遇する機会が稀ではありません。
2000(平成12)年9月11日から12日にかけて、東海地方はかつてない豪雨に襲われました。
愛知県名古屋市では2日間の合計降水量が567mmにも達し、名古屋市天白区や、西春日井郡西枇杷島町・新川町(いずれも現清須市)などでは広範囲にわたって床上浸水に見舞われました。
後に「東海豪雨」と命名されたこの災害は、被災地のみならず、全国的な交通や物流にも長期間にわたり影響を及ぼしました。
被害が愛知県下に集中していたためにあまり目を向けられることがありませんでしたが、岐阜県では矢作川流域の恵那郡上矢作町(現恵那市上矢作町)周辺において集中的にこの豪雨の影響を受けており、東海豪雨という一般的な名称とは別に、岐阜県ではこの災害を「恵南豪雨」と称しています(以下、本稿でも原則として恵南豪雨と表記します)。
テレビや新聞の報道では名古屋市周辺の被害状況に報道内容が集中していましたが、実際の被害としてはこの恵南地区もそれを凌ぐといってもよいほど甚大なものでした。
私はこの日、たまたま仕事で恵那市内のお客様を訪問していたのですが、今まで経験したことのないような降り方の雨にお客様が気を遣って下さり、予定を切り上げて帰宅させて頂く事になりました。
かなり降りが激しくなってきてからお客様の元を退出したため、運悪くちょうど最も時間降水量の多かった夕方に名古屋市内へ向けて車を走らせることになりました。
中央自動車道では、小牧ジャンクション手前の桃花台の辺りで大規模に冠水していました。ワイパーを最大にしても視界がほとんど効かない状態の中を、徐行していたとはいえそれなりの速度で冠水に進入してしまい、水圧による抵抗のために強引に4速から2速へシフトダウンしてエンジンブレーキを掛けたかのようにエンジンが猛烈な唸りを上げて車が減速したときには、このまま事が壊れて事故を起こしてしまうのではないかと恐怖におののきました。
高速道路を下りて一般道へ入ってからの状況はさらに悪化しており、少しでも低い場所は軒並み冠水しているなど自身の車も危うく水没しかけながらの自宅までの道のりは、15年近く経ったいま思い出しても身の毛のよだつものでした。
少々思い出話が長くなってしまいましたが、この豪雨については今後も折々触れることとして、災害によって失われた道を長野県に近い「海」集落側から辿ってみたいと思います。
トンネルの傍らに、矢作川の支流上村川に沿って分岐する道があります。いかにも旧道といった風情です。
こちらを進んでみましょう。
道は舗装されており、草は多いもののさほど荒れている様子はありません。
ただ、川床へ近づくように下り坂になっていることに違和感を覚えつつ、さらに歩みを進めます。
どんどん川が接近してきます。やはり何か不自然な様相です…。
さらに進むと、舗装路が唐突に崖にぶつかるようにして途切れています。
しかし良く見てみると、写真の中ほどより少し上、5mほど上部に平場があることがわかります。どうやら本来の路盤はトンネル脇からあまり高度を下げず、私の頭上数mのところに設けられていたようです。
この舗装路は、災害復旧時の作業用に造られたものと思われます。
盛土になっていた路盤がすっぱりと失われている様子が見てとれます。路盤まで登ってみましょう。
なにやら看板が取り残されていました。
「岐阜県(上矢作・恵那)へは行けません。国道153号まで戻り迂回路をお通りください」の立て看板。
この看板の場所自体も岐阜県内ではあるのですが、対岸は長野県ですし、この海集落が岐阜県内の国道418号沿いでは最奥にあたるため、事実上長野県内にある看板のような表記になっています。
このまま進めば上矢作の中心街までは10kmほどですが、一旦国道153号へ戻って迂回すると、最短経路となる狭い県道経由でも30kmほどになるので相当な時間のロスとなります。
海集落の方向を振り返って。
まるで大地震で断層でも生じたかのように、下の舗装路との間に高低差があることがお分かりいただけると思います。
それにしても、この集落の地名は山中にも関わらず「海」という特徴的な名称となっています。
海という地名の由来については、上矢作町史(2008)に記されているので以下に引用させて頂きます。
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達原の奥達原の東北部は、上村恵那国有林が広く占めているが、川・道に沿って飛び地になったところに、「海」という字がある。ウミは、湿地の意があるが、ミズウミか湖沿いの場合もある。かって、山崩れなどで、谷が埋まり湖になったことから命名されたものと見られる。
天正一三年(一五八五)の東海から飛騨へかけての大地震の時、字海の南下の「アラ」(荒峰山の麓)で山崩れがあり、谷を閉塞してその上部に湖を形成した、と言う人もいた。それが、平成一二年九月の恵南集中豪雨で海地区からアラにかけて、道路壁及び道路の崩落や河床の削落が広範囲に発生し、河床の断面が剥出しとなった。
その堆積遺物を多く含んだ地層は、名古屋大学年代測定総合センター鈴木和博教授の調査によって、天正地震(一五八六)の山崩れでできた湖のものであることが判明し、ウミ地名命名起源の証しとなった。
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上矢作町史 通史編 (2008年3月 上矢作町史編纂委員会編 岐阜県図書館蔵) 680ページ
(第六部:社寺・文化財と人物 第四章:地名)より引用
このように、もともと山崩れで堰止湖ができてしまうような環境であったという事が地名から推察されます。
それがために、恵南豪雨においても崩落などによる甚大な被害が生じたといえるのでしょう。
歩道の残存する場所から山側に目をやると、なにやら石垣と平場のようなものがありました。
もしかすると、旧旧道の跡かもしれません。
もと来た方向へ戻ってみれば、もう少し痕跡を見つける事ができたのかも知れませんが、最終的には一枚目の写真の通りトンネル脇は大きく土が盛られてしまっていて痕跡が不明瞭になっていそうだったので、今回は深追いしませんでした。
道の端部には階段も設けられていました。集落の入口にあたる場所ですので、もしかしたら何らかの地神様が祀られていたのかもしれません。
しかし、この階段を登ることはできませんでした。なぜならば…。
無残にも、道はここで消失してしまっているのです。
川床へ向けて、真っ白いガードレールが捩れながら崩れ落ちています。
崩落手前のカーブミラー。
比較的状態がよいだけに、虚しさを感じずにはいられません。
行く手の崩落地をバックに海方向を。
残存区間は正味50mあるかないか、といったところでしょうか。
仕方がないので、崩落した路盤を川床へと下ってゆきます。
これだけ崩れているのに、よくぞガードレールは破断もされずに残っているものです。
廃道ではたまにみかける光景ですが、ガートーレールの柔軟性というか耐久力を見せ付けられているような気がします。
川床から来た道の方向を見てみます。
大きい石が無造作に転がり、もはやただの沢と言われても分からないような有り様ですが、電柱とガードレールがそれでもなお「ここに道があったのだぞ」と言わんばかりに存在感を放っていました。
現道分岐から僅か300mほどでこの状況。
この先がどうなっているのか、先行きが怪しくなってきました。
次回へ続きます。
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