中山道三十七番目の宿場町である福島から開田、高根を経て高山へと至る道筋は、古くから飛騨街道と呼ばれ、利用されてきました。
福島から開田への道程は、福島宿の北側に位置する黒川に沿って北上し、途中の渡合から支流の西洞川沿いへと分け入り、地蔵峠を越えていました。
この区間は、初期においては途中急峻な沢で難所でもあった唐沢の滝を避けるため、滝の手前から別の沢へと分け入り、山ノ神峠と称する峠を越えた後に、さらに地蔵峠を越えるルートとなっていました。
安政年間に入り、末川村の庄屋と黒川村の医師が発起人となって唐沢の滝上の断崖に新たな道を開鑿して道筋が改められました。これにより距離が大幅に短縮され、それが現在もなお「地蔵峠旧道」として利用されているルートとなっています。
写真は地蔵峠のピークから少し下がったところにある展望台から御嶽山を臨んだ光景です。かなりの高度であることがお分かりいただけると思います。
近代以降、この街道は福島と開田を結ぶ里道として改修が始まり、1920(大正9)年4月に郡道として認定、1959(昭和34)年8月に県道、1964(昭和39)年12月に主要地方道へと徐々に格上げされ、ついに1974(昭和49)年11月に、念願の国道361号へと昇格しました。
ここへ至るまでには、度重なる郡役場、県庁、国への陳情など、決して順調とはいえない道のりを歩んでおり、岐阜県境の長峰峠までの開通には実に村長七代30年を要しました。
「開田村誌(1980)」では、そうした国道昇格について以下のように記しています。
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(前略)
国道昇格が道路審議会で内定した報を受けて開田村長青木操はその喜びと今後の心構えについて次のように述べておる。
「待ちに待った主要地方道高山~福島線が遂いに昨日(昭和四九、一一、五)国道に昇格が内定しましたので ここに村報特集号をもってご報告申し上げます。力の及ぶ限りの運動とうつべき手段のすべてをつくして後は天命を待つような心境で一一月五日開かれる道路審議会の審議結果を注目しておりました。し烈を極めた今回の国道昇格運動は後述のとおりですがよくその少ないワクの一角にすべり込み得たのは村議会はもとより全村民挙げてのご協力のお蔭であり心から感謝申し上げると共に喜びをわかち合いたいと思います。しかし国道昇格をもってすべてが終わったのではありません。所期の目的こそ達しましたがむしろ問題は今後に課せられております未改良・未舗装部分の早期完工はもとよりですが地蔵峠のトンネルを最大の課題として取り組まなければなりませんが期成同盟会共通の問題として強力に推し進めてまいります。長い間にわたり今日の礎を築いていただいた先輩為政者の皆さんにも改めて敬意を捧げ取り急ぎお礼にあわせてご報告申し上げます。」
現在は建設省による隧道開鑿位置などの大体の測量を終へ着工に向けて前進しつつある。
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開田村誌 下巻 (1980年10月 長野県木曽郡開田村役場村誌編纂委員会編 諏訪市図書館蔵) 1173~1175ページ
(第八編:村の近・現代 第五章:交通・運輸 一:道路)より引用
開田村誌が刊行された1980(昭和55)年当時、「隧道開鑿位置など大体の測量を終へ着工に向けて前進しつつある」とされた隧道が、現在の国道361号新地蔵トンネルです。
国道整備にあたっては、急峻な地蔵峠を迂回し、比較的勾配の緩い黒川の本流沿いのルートが選ばれました。新地蔵トンネルは1987(昭和62)年3月に開通し、現在では福島から開田まで、一部の未改良区間を除き快適な二車線道路で結ばれています。
この新地蔵トンネル周辺を地形図で見てみると、すぐ近傍に「折橋トンネル」というトンネルが描かれています。
今回はこの「折橋トンネル」をご紹介したいと思います。
出典:国土交通省国土地理院 1:25:000地形図「末川」(平成10年測図 同11年11月30日発行)
折橋は福島から黒川沿いに上りつめた旧新開村(現木曽町新開)の最奥部にある集落です。
主要な通行路としては地蔵峠が利用されていましたが、こちらの峠道は地蔵峠より緩やかな坂道だったため、女性の持子などが好んで利用していたそうです。かつての峠道は地形図上では既に途中で途切れていますが、開田村誌によると、「峠の頂上から尾根づたいに約二、三十米も入ると四岳神社の祠があり」とありますので、図上に記された神社の記号が四岳神社と推測され、赤矢印の部分が折橋峠とみてよいでしょう。
国道361号の新道である新地蔵トンネルと非常に隣接した位置にあるため、この折橋隧道のある道が国道361号の旧道として紹介されることもあるようですが、実際にはこの折橋隧道のある道は林道として設けられたものでした。
こちらについても開田村誌に詳しく記されているので、引用いたします。
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(四)林道
(ア)折橋線
奥地森林資源の開発を目途としてこの林道は長野県林道協会の一林道係長が計画策定した。その構想は折橋峠の開鑿により開田側に出て大屋部落に下り末川川の右岸へ渡り向筋西部落より髭沢を経て小把ノ沢に抜け把ノ沢部落を北上して安又を越え西野神田に至る森林資源豊富の山元を巡り専ら林道としての使命を完うせしむると共に一面県道(現国道)福島・高山線とも連絡して沿線一帯の民有林は勿論広大な面積と資源を有する国有林の利用開発を目的とした。
折橋隧道開鑿は新開村森林組合(現木曽福島町森林組合)が事業主体となり開設事業費に対し国庫補助六割県費補助一割で国県費補助を差し引いた残り三割が地元負担金、これを開田村五、新開村三、福島町二の割合により負担し時に農林中央金庫よりの借入金などによって賄いのち福島営林署との協定により国有林材の隧道通行林道使用料の徴収により償還することとした。隧道の長さ四六〇米巾員四米高サ四、五米隧道関係工事費五七、四六二千円で大桑村野尻株式会社奥田組(下請松本市長栄土木株式会社)が請負施工した。中途資金借入についてのトラブルがあったが着工昭和二六年一二月三日竣功同二八年一一月一六日で隧道出口より西南側山腹を通り大屋部落熊野神社南側に至り大屋橋近くのコンクリート橋迄開設して一応区切りとなった。昭和三五年五月一三日開田村と福島営林署と関係部分(末川本谷国有林に至る)の併用林道として村議会の認定議決を経て今日に至っておる。管理費は開田村二七、六%営林署七二、四%である。
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開田村誌 下巻 (1980年10月 長野県木曽郡開田村役場村誌編纂委員会編 諏訪市図書館蔵) 1177~1178ページ
(第八編:村の近・現代 第五章:交通・運輸 一:道路)より引用
サイズの都合上広域図が掲載できないのでイメージがしにくいかと思いますが、もともとの計画では開田村東端の折橋峠から中央部の西野までを結ぶ長い林道として計画されており、また「一面県道(現国道)福島・高山線とも連絡して…」とあるので、国有林、民有林の資源開発・活用を題目としつつ、隧道もなく急な勾配が続く地蔵峠のバイパス的な役割も目論まれていたように思えます。
また、建設費については七割が国県補助とはいえ、村誌には具体的内容が明記はされていませんが何やら借入に際してトラブルもあったようですし、国有木材の運搬について林道使用料を徴収して償還することにされたなど、やはり山間部の村々には負担が重かったようです。
長々と歴史を書き連ねてしまいましたが、ここから現在の隧道の状況を見てゆきましょう。
新地蔵トンネルの南側坑口前を右折し、きそふくしまスキー場のゲレンデ沿いに広がる折橋集落の中を通る道を登ってゆきます。
スキー場だけに道路はそこそこの勾配があり、途中には貸しスキー店や食堂など、シーズン中にはスキーヤーを対象に営業をする店なども見られますが、シーズン以外は閑散とした山村の佇まいです。
坂を上り詰めると前方に携帯電話の電波塔のような施設があり、道は行き止まりになっています。
柵の右手から奥へと進みます。
ちょっとした藪の向こうに、コンクリートの壁が見えてきました。
折橋隧道の南側坑門です。
坑門付近には、土砂や間伐した木材が放置されており、残念ながら坑口は閉塞している様子です。
上の写真では坑口右手は沢のように窪みがついているのですが、地形図では坑口脇には掘割記号が記されており坑門脇には石積みが見られたので、もともと山だった部分が徐々に侵食され、沢のようになってきているのかもしれません。
洞内への進入は不可能ですが、その代わりに普段は高所にあって間近で眺めることができない扁額が目の当たりにできます。
扁額の揮毫です。
「折橋隧道 新開口 増田甲子七書」
旧新開村側の坑口には、「新開口」と名づけられていました。
増田甲子七は、戦後間もない時期から高度成長期にかけて、吉田茂の側近として運輸大臣、労働大臣、内閣官房長官、初代北海道開発庁長官、防衛庁長官を歴任した長野県選出の国会議員です。
本隧道の開通は前出の開田村誌によると1953(昭和28)年で、増田甲子七がサンフランシスコ講和条約の締結に向けて野党との折衝にあたった自由党幹事長の職を退任したすぐ後のことのようで、林道ながら運輸大臣も経験した有力な政治家に揮毫を託したということは、それだけこの隧道には地元の期待がかけられていたのでしょう。
しかしこの扁額、よく見ると少々違和感を覚える箇所があります。
隧道の「隧」。
之繞(しんにょう)の位置と大きさがとても不自然です。
よく見ると、もともと「隧」ではなく「墜」と刻まれていたものを、後年「土」の部分をセメントか何かで埋めて、改めて之繞を彫りなおしたようです。
「隧道」を「墜道」と扁額に記した例は、他にも静岡県掛川市の「八木ノ田墜道」や、宮崎県西都市妻の水路隧道「法元墜道」など全国に数例見られるようです。
「山さ行がねが」の平沼義之氏によると、近代土木黎明期には「隧道」と「墜道」が併用されていたという文献も残されており、完全な誤用というわけではありません。しかし、戦後のこの時期まで「墜道」という表現が一般に用いられていたのか、あるいは単なる増田甲子七の書き間違いであったのかは、今となっては知る術がありません。
それにしても、特にここまでの手間をかけて修正せずともさして影響はないようにも思えますが、地元の有力な政治家の書に後から強引な修正が施された経緯というのにも大変興味があります。
ちなみに折橋隧道の二年後、1955(昭和30)年に開通した国道19号の旧鳥居隧道の扁額も増田の書によるものですが、こちらには「隧道」の文字があてられています。
新開口は崩落で完全閉塞していたので、開田側へ回ってみます。
新開側は隧道の100mほど手前までアスファルト舗装されていて容易に車でアプローチできましたが、開田側はいかにも林道らしい狭いダートを2km以上走る必要があり、大きめの車だと少々面倒です。
隧道が分岐する丁字路のところに、開田村の掲げた「カーブ多し スピードに注意」の錆びた看板と、縦に半分欠けた林道標識が残されていました。
後ろに見える道が、前出の開田村誌に記された大屋集落へ至る林道です。
開田側の坑口です。
崩落などなく良い状態で残されていますが、残念ながらこちらも坑口は完全に閉鎖されています。
どうやらガードレールの廃材を利用したもののようで、基礎の部分はコンクリートで支えられており、欠落を防止するためか中間にも一本、古ガードレールが渡されています。
開田側の扁額は苔と草に覆われています。
「折橋 道 開田口」は辛うじて読み取れますが、肝心の部分が「隧」なのか「墜」なのか判然としません。
新開口同様、坑口の名称が記されています。「増田甲子七書」とも記されているのでしょうが、よく分かりませんでした。
いずれ冬枯れの時期にでも再訪して改めて確認したいものです。
最後に余談になりますが、折橋隧道の代替となった国道361号の「新地蔵トンネル」という名称は実に微妙な名付けではないでしょうか。
トンネルの位置する場所は地蔵峠よりも折橋峠の方が遥かに近く、「新折橋トンネル」とでも名づけた方が現実的に思えます。
しかしあくまでこのトンネルは国道361号地蔵峠のバイパスとして木曽福島と開田を結ぶものであり、林道隧道とは無関係と言わんばかりに地蔵峠由来の名を冠しているのですが、地蔵峠には元々隧道はなかったので、「新地蔵」に対応する「地蔵隧道」という旧隧道は存在していないのです。
何に対しての「新」なのかも分からないし、地蔵峠に開鑿されている訳でもない、という実に中途半端な状況です。
新地蔵トンネルの開通に伴い木曽福島から開田への交通は飛躍的に利便性が向上し、私も新蕎麦の季節には毎年のように開田を訪れてとうじ蕎麦や蕎麦がきに舌鼓を打ちますし、冬にスキーなどに出掛ける際にも安心して峠を越えられるので新地蔵トンネルの恩恵には十二分に与っているのですが、このトンネルを通過する際に「新地蔵トンネル」の看板を見かけるたびに、どうにもその名前にもやもやしたものを感じてしまうのでした。
場所はこちら