愛知県犬山市、木曽川河畔の丘の上に立つ国宝犬山城。
通称「白帝城」と呼ばれるこの小さな城は、江戸時代からの天守閣が現存する数少ない城のひとつで、1469(文明元)年に織田広近によって築造された砦がルーツといわれています。
現在の天守は1537(天文6)年に織田信康が建造したものに手を加えられながら現在の形態になったといわれています。
江戸時代には尾張藩附家老である成瀬家の居城となりましたが、明治の廃藩置県によって愛知県の所有となり天守を除く櫓や門が取り壊されました。
1895(明治24)年に、かの根尾谷断層が引き起こした濃尾地震によって半壊し、修復することを条件に成瀬家へ返還され、以後2004(平成16)年に公益法人犬山城白帝文庫へ寄付されるまでの間は、日本で唯一の個人が所有する城としても有名でした。
そんな犬山城の麓を流れる郷瀬川が木曽川へと合流する地点に、優雅な鋼製のアーチ橋が架橋されています。
これが「彩雲橋」です。
木曽川左岸を犬山橋から下流へ向けて進むと、左手に名鉄犬山ホテルがみえてきます。
この一帯にはかつて、名鉄が1925(大正14)年に開園した犬山遊園地という娯楽施設があり、演舞場やカンツリークラブ、プールなどと共にホテルと高級料理旅館が設けられていました。
この料理旅館が「彩雲閣」という名称であったことから、橋の名はこの彩雲閣にちなんだものと推測されます。
犬山ホテルの前を過ぎると、道が二手に分かれます。いずれも一方通行となっており、左手は郷瀬川沿いに犬山城の門前へ進むことができます。
右手が彩雲橋で、古い鋼製アーチであることからか2.0tの重量制限が設けられています。
上部から眺めると、欄干がコンクリート製のシンプルなものなので、ごくありふれたコンクリート桁橋のようにもみえます。
欄干は右側だけが手前まで伸びてきていますが、これは左手は自然の地盤で右側だけが桟橋のように張り出していることによるものです。
橋を渡って反対側から。
やはりこちらから見ても、道路上から見ている限りは鋼製アーチとは思えない佇まいです。
親柱を確認します。
銘板はタイル製で、左岸上流側は「□いうんばし」。「さ」の部分が抉れて欠損しています。
続いて左岸下流側は「□和四年三月竣工」。
こちらも上流側同様、なぜか一番上の文字が欠損しています。
右岸下流側は「彩雲橋」。
これも上部が欠損しています。全ての銘板で同じような位置が欠損しているのには、何か事情があるのでしょうか…。
ちなみに右岸上流側は、天然岩と密着しているので銘板はありません。
郷瀬川合流地点の河川敷は砂嘴のように突き出しており、正対して橋を眺めることができます。
左側アーチの半分が木々に覆われて見えませんが、横から眺めるとコンクリートの欄干に比べ、繊細な印象を受けるアーチであることが分かります。
そして橋のすぐ奥は豪快な滝になっており、それがこの橋の景観をより一層引き立たせてくれています。
下から見上げてみます。
アーチ部材、トラス材共にレールが使用されているのがお分かりいただけるでしょうか。道路橋のアーチ部材としてレールを用いた例というのは、珍しいものと思います。
右岸側の橋台です。橋台はコンクリートで固められています。後年補強されたのか数箇所に打ち込まれたアンカーが目立ちます。
前述の通り右岸側は路盤の半分ほどが天然の地盤に接しているため、下部には石垣が組まれています。
特に梯子などは用意されていないので、適当に岩をよじ登って路盤の下までやってきました。
岩を絶妙に避けるようにしてアーチが架けられています。おそらくアーチに合わせて岩の方を削っているのでしょうが、なかなか面白い光景です。
プレート部をアップで。
全てレールで構成されていることがよく分かるかと思います。
中央部へやってきました。
こちらも橋脚は半分以上天然岩を流用したような格好になっています。
そして左岸側の径間で川を渡るのですが、こちら側は路幅を確保するため、アーチ部材が一本増えて三本になっています。
レールが描く美しいカーブ。
それにしても部材が些か華奢に見えるのですが、これでも強度的に2.0tまでは問題がないというのはアーチ式ゆえということなのでしょうか。
レール製なので当然アーチ材にヒンジはなく固定アーチとなっているため、応力は全て基礎が受け持つことになりますが、幸いこの辺りの地盤はチャートで非常に強固なので、その辺りの強度面では問題なさそうです。
レールをよく観察していると、「CARNEGIE 1911 ET II 60 R I(横向き)」の銘がありました。
米国カーネギー社エドカートムソン工場で1911年に製造されたレールで60Rはレールの重量を示しているようです。
(参考)古レールのページ / A Webpage of Old Rails (for Railroad) in Japan
この橋は1929(昭和4)年竣工ですから、古レールの転用にしては年月が浅いようにも思えます。転用ではなく新品のレールを使用した可能性もあるのではないかと考えられます。
橋台から滝の豪快な流れを眺めます。
部材には枯れ草やビニールが引っ掛かっているので、増水時にはここまで水が来ることもあるようです。
左岸側の橋台です。
こちらも強固な岩盤とコンクリートを巧みに組み合わせて築造されています。橋台脇は石垣が組まれていました。
滝とアーチ。
滝の落差は3m程度でしょうか。撮影日は雨続きの陽気だった上に、市街地を流れる川なので決して清流とはいえませんが、非常に水勢はよく見応えがあります。
左岸側の川下へ下っての景観です。
水量が多いので、うっかり足を滑らせたら滝へ真っ逆さまに落ちそうでスリルがありました。
滝の位置は橋のほぼ直下にあたります。
そのため橋の上からは滝の様子があまりよくうかがえないので、やはり絶好のビューポイントは上の写真の左側中ほどに写っている、砂嘴のようになった河川敷部分ということになるでしょう。
ところでこの彩雲橋は、大正から昭和にかけて、多数の観光鳥瞰図を描いた吉田初三郎の図版にも登場しています。
この時期の初三郎は名鉄の支援を受けて犬山橋の上流、寂光院のそばに「蘇江画室」という工房を構えており、そこで全国津々浦々、幾多もの鳥瞰図が描かれ世に送り出されていました。名鉄でも鳥瞰図をはじめポスターなど多くの広告物の作成を初三郎に依頼しており、「彩雲閣御案内」という鳥瞰図に、この彩雲橋が描かれているのです。
彩雲閣御案内(1929(昭和4)年発行)より
(平成26年度稲沢市図書館企画展「-鳥瞰図の名手・吉田初三郎が招く- 【全国私鉄沿線名所めぐり】」 出展の伊藤利春氏所蔵展示物(複写)を許可を得て撮影)
絵では二連のコンクリートアーチのように見えますが、岩壁にへばりつくように架橋された姿はよく表現されています。
橋のすぐ先には隧道が描かれていますが、そちらについては項を改めてご紹介したいと思います。
最後に、本項をアップしようと思っていた直前に、竣工当時と思われる彩雲橋の絵葉書を入手できたのでご紹介いたします。
「FAMOUS PLACE IN KISOGAWA NIHONRAIN (木曾川・日本ライン) 櫻花爛漫なる彩雲橋附近」のキャプションがつけられています。
奥の堤防道路のコンクリートが真新しい感じに見受けられ、手前の道も未舗装で親柱手前の柵も丸鋼そのままのようなので、若干欄干がくすんで見えますが、恐らく竣工からさほど経っていない時期のものと思われます。背景には犬山橋の姿も写っています。
当然のことながら親柱の銘板の欠損はなく、「さいうんばし」、「昭和四年三月竣工」の文字が小さいながらもはっきりと見られます。
「櫻花爛漫」といっても白黒写真なのでさっぱり分からないのですが(苦笑)
それにしても、当時はかなり絵葉書が流行していて「何でこんなものが」という光景が題材になっているケースも多いのではありますが、周辺随一の名所である犬山城に背を向けてまでこのように景勝としてとり上げられるというのは、やはり当時としても彩雲橋が先進的でアーチ構造の優美さが認められていたものと思われます。
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