国道151号は、長野県飯田市と愛知県豊橋市とを結ぶ、延長約130kmほどの一般国道です。
長野県内では遠州街道、愛知県北部では別所街道、南部では伊那街道と呼ばれており、明治以降整備が進められ、1953(昭和28)年5月に二級国道151号飯田豊橋線として国道指定を受けました。高速道路網が行き届かない遠州と伊那谷との間を結ぶ主要な幹線として、途中新野峠などの難所もありつつ、比較的交通量の多い国道でもあります。
国道151号は、豊橋からJR飯田線と寄り添うように、愛知県の山間部へと進んでゆきます。そして東栄駅のある三輪の集落に到達すると、それまで併走していた飯田線に別れを告げて、国道は北上をはじめます。
東栄駅前から1kmほど進むと、真新しいバイパストンネルが口を開けて待ち受けています。これが「市原トンネル」です。
新城側から北方向を向いて。新旧道の分岐点です。
現道はそのまま直線で山を貫いていますが、旧道は尾根を避けるように右側(東)へと急カーブを描いていました。
オレンジ色の中央線が、きついカーブを描いて右側へ曲がっている跡が見てとれます。
まずは旧道に進む前に、新道市原トンネルの南側坑口を見てみましょう。
石積みを模した模様を表面に施したコンクリート面壁工で、近年の隧道ではよくみられるオーソドックスな形態です。
市原トンネルの扁額は素朴な筆文字。地元の子供の手によるものでしょうか。
さすがに一級国道のトンネルだけに、内部は広く、東側にはガードレールの付いた幅の広い歩道が設けられています。
分岐点に戻ってきました。
新道開通にあたり旧道との分岐は線形改良で丁字路形にされたため、旧道の路盤は空き地となっています。
空き地となった部分には、オレンジ色のセンターラインがそのまま残されていました。
旧道です。
かつては二車線道路でしたが、現在は一車線扱いになっており、中央線が消され、路肩が不自然なほど広く取られた格好になっています。
かつてはこの道が路線バスの通行する国道であったことを示す名残りの看板です。
この辺りでは停留所を設けずに自由乗降が可能だったようなので、不意にバスが停車する可能性があることをドライバーに喚起していたものです。
進路がカーブになっているため、減速を促すオレンジのラインが引かれています。
二車線時代のものがそのまま残っているので、現役当時の車線と現在の車線の位置関係がよくわかります。
旧道には三遠南信自動車道の一部をなす三遠道路の工事事務所が設けられており、現在鋭意工事が進行しています。
東栄町の辺りはチェーンソーアートが盛んで競技大会も開かれており、各所で作品を見ることができるのですが、工事事務所前にも一体置かれていました。
親子像だと思うのですが、ちょっと怖いです(笑)
工事事務所のすぐ先に柵がもうけられ、車両の通行はここまでとなります。
上の写真の反対側から東栄方向を。
かなりのブラインドカーブですが、以前はここが二車線で、豊橋・新城方面と飯田・南信方面を行き交う交通を支えていたと思うと、さすがにかなり危険度が高かったのではないかと思います。
カーブの先には古めかしい隧道が口を開けています。市原トンネルの先代にあたる市原隧道です。
明らかに見通しが悪く、これでは新道が造られるのも当然と言えるでしょう。
隧道入口にはフェンスが設けられているので、通行することはできません。
苔むしたコンクリート坑口。長さこそ短いものの、やはり現道の市原トンネルとは比べ物にならない狭さです。
扁額をアップで。
「いちはらずいどう 昭和40年1月巻立」
とあります。
ここで注目したいのは、年月表記はあるものの、その年月が示すのが「竣工」や「建造」ではなく「巻立」であることです。
隧道研究のバイブルともいえる1967(昭和42)年土木界通信社刊行の「道路トンネル大鑑」によると、この市原隧道については、
延長:34.5m
車道幅員:5.5m
限界高:3.2m
素掘、覆工の別:素
舗装:未
の記述はあるのですが、肝心の「竣工年度」については、「-」と記され不明になっています。
わざわざ「巻立」と記すということは、現在のような覆工が施されたのが昭和40年ということだと思われますので、開鑿自体は更に前であると推測されます。
なお、「道路トンネル大鑑」の覆工欄が「未」になっているのは、出版年と施工年が近いため、情報の更新が追いついていなかったものと思われます。
フェンス越しに洞内を眺めてみます。
一目で分かる特徴としては、断面が馬蹄形ではなく真円に近い形状になっていることです。
近年のシールド工法のトンネルであれば、真円に近い形状のものも多くみられますが、一般には主に上部方向からの土圧に対して強い馬蹄形で施工されているにも関わらず、この年代の施工かつ35mという短距離で真円に巻立られているというのは、何か事情があるように思われます。
隧道はフェンスで塞がれて通行できませんが、右手に旧旧道があるのでそちらを進んでみます。
こちらは幅員がせいぜい広く見積もっても1.2m程度で、車両が交差通行できるほどの幅はありません。
しばらく進むと稜線の端部に到達します。カーブミラーが設けられていることから、この先の急カーブが想像できますね。
稜線の頂点辺りには、無数の石仏が祀られていました。
数は数えていませんが、十体以上あったのではないかと思います。
中には転倒したり割れてしまっているものもありますが、いずれもかなり古いものと思われます。
そしてその石仏群のすぐ前に、白いフェンスが道を塞ぐように設置されています。
まだ錆や汚れがあまり見られないので、比較的新しいもののようです。
そしてフェンスの先は路盤がごっそり持っていかれていました。
コンクリート吹付で養生されているので、当面の間はこれ以上崩落が進行することはなさそうです。
谷底までは相当な急傾斜になっています。足を滑らせれば一気に数十メートル滑落してしまいます。
被害の拡大を防ぐために、このような場所にまで吹付工を行う施工業者の方々には頭が下がる想いです。
振り返って。
北側には進路を塞ぐフェンスは設けられていませんでした。
…と思いつつ道をそのまま進むと、こちら側は旧道との分岐地点で既に先ほどと同様の柵で閉鎖されていました。
市原隧道の東栄側坑口。左手が今通ってきた旧旧道です。
歩道にトラ柵と、通行止の標識が設けられていました。
こちら側の坑口もコンクリート製。やはりフェンスで閉鎖されています。
扁額は「市原隧道」。
特に竣工年などが記述されておらず、また別途銘板などは設置されていないため、やはりこの隧道の竣工年は現場での特定ができませんでした。
見上げると、地山の上部にはアンカーがいくつも打設されていました。
さきほどの旧旧道の崩落、そして多数の石仏。恐らくこの稜線の地盤はかなり悪く、昔から落石や崩落などが頻発していたように思えます。
そのために旧旧道では安全祈願か慰霊か分かりませんが多くの石仏が祀られ、市原隧道の巻立も、馬蹄形ではなく全方向からの変圧に強い真円が選ばれたのではないでしょうか。
市原隧道を越えると、いかにも旧道らしい緩やかなカーブを描くやや幅員の狭い二車線道がしばらく続きます。
つづく。
場所はこちら。
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