前回からの続きです。
川角トンネル手前の駐車スペースの直下にへつり道という思わぬ遺構を見つけた後は、一旦現在の林道小田線と旧地形図に描かれた徒歩道との合流点に向かい、そこから沢を下る形で徒歩道の跡を追ってみます。
川角トンネルを越えるとすぐに橋を渡ります。
旧地形図によると、ここには旧徒歩道から別れて沢伝いに山道が記されているのですが、現場では谷は崩落石が目立ち、そのような痕跡は見つけられませんでした。
迂闊にも写真を撮っていなかったので、状況をご覧頂けないのがお恥ずかしい限りです。
国土地理院発行 1:25000 「三河本郷」(昭和47年12月発行) より引用
橋を渡ると路傍になにやら標石が建てられているのが目に付きました。
施行主体 愛知県
請負者 (有)岡村組
昭和五十四年度
過疎山村地域代行林道工事
(小田線 1工区)
工事延長 一一七米基点
と記されていました。
ここから117mの区間が一工区として1979(昭和54)年度に着工されたのを足がかりとして、林道小田線は少しずつ延伸を続けて現在の形態になったようです。
途中には「奉納不動明王 川角」の幟がいくつも立てられ、脇へ下りてゆく階段があります。この下に不動様が祀られているのでしょう。
しばらく進むと真新しいコンクリート吹き付けの斜面がありました。
やはり地質はあまりよくないのか、小規模な落石や崩落は頻発しているようです。
もう本稿では三度目の登場となりますが、愛知県林道協会編の「40周年記念誌 40年のあゆみ」の愛知県林道ギネスのコーナーに、この周辺と思われるエリアが「最も延長の長い擁壁」として紹介されています。
40周年記念誌 40年のあゆみ (1988年 愛知県林道協会編 愛知県図書館蔵)
49ページより引用
このコーナーには十数点のトピックが紹介されているのですが、うち三点が小田線というのも、この林道小田線の立地の厳しさを象徴しているように思えます。
そして到着した徒歩道との分岐点。林道は、ややきつめのカーブを描いて尾根を巻いていますが、徒歩道はこの先の尾根筋を直降するように記されています。
分け入って稜線伝いに進んでみました。
明らかに道とわかる痕跡はありませんが、比較的平らで歩きやすいな、と思ったのもつかの間、実はこの先でほぼ崖といっていい斜面に突き当たっており、地形図通りに進むとクライミング並みのスキルが必要になってしまいます。
北側の斜面に目を向けると、なんとなく九十九折れで下る道跡に見えなくも無いルートがあったので、それを頼りに斜面を下って行きます。
とても荷車などが通行できるようなものではありませんが、徒歩であればこの程度のハイキング道は随所にあるかな、といった感じです。
しかしそれも次第に怪しくなってきました。道…なのかどうなのか。
取り敢えず1m足らずの平場を頼りに下って行きます。
最終的にはこのような、踏み跡のよく分からない急斜面になってしまいました。
一応きちんと整備されていれば、徒歩で上り下りは出来そうな斜面なのですが、肝心の道形が判然としないので、ほぼ重力に逆らわずになるべく平らな場所を半ば滑り降りるような格好で下る羽目になってしまいました。
途中の斜面はこのような感じです。
まあ山道だったとすればこんなものなのでしょうか。ただ、もはや林道のおかげで人がここを通ることはほぼ皆無でしょうし、痕跡も判然としないので、まったくもって道の跡を歩いているという実感はありません…。
谷の合流点がみえてきましたが、それと共に斜度も急に…。
正直なところ、明確な道形も発見できていない、言ってしまえば単なる山の斜面を、帰りに登りなおす気力がみるみる失われてゆきます。
見上げるとこのような感じです。
もしかしたら南側の谷側に道筋があったのかも知れないと思い周り込んで見ましたが、むしろ南側のほうが崖に近い状態でした。道が敷かれていたとするなら、やはり今回たどって来た北側斜面ということになりそうです。
谷の合流点まで下りてきました。南側の谷には小さな滝があり、傍らには先ほど林道に幟の立てられていた不動様の鎮座していたと思われる台座が残されていましたが、石像は見当たりませんでした。
さきほどの林道脇の階段から続いていると思われる参道の木橋です。
道らしきものも発見できず、帰路に今まで下ってきた斜面を登りなおす気力は完全に失われていたので、ここをエスケープルートとして利用することにしました。
立派な木道ですが、肝心の不動様も見当たらず、かなり長い間使われていないようなので、苔むして腐食が進んでいます。
ここからは谷伝いに道があるはずなのですが、河原から林道方向を見上げるとご覧のような崩落。
崩落下部の岩塊の破断面は、木の年輪のような文様になっていました。
この辺りは中央構造線の領家変成帯の固い岩盤の上に川角層と呼ばれる砂岩で構成された層が堆積しており、この岩は砂岩が構成される間に堆積した年代によって年輪状の文様が形成されたのではないかと思われます。
地質学には詳しくないので、全く的外れな見解かも知れませんが…。
何の収獲も無く、河原を下ってゆくと砂防ダムが現れてきました。
直降した稜線の北側の谷には砂防ダムの記号がいくつか描かれていましたが、下流側には記号ありませんでした。しかし実際には、下流側にも砂防ダムが建造されていたようです。
これによって、ダム工事や堆砂の影響で、もしもかつて道があったとしてもその痕跡がほぼ失われていることが確定したような気がして完全に意気消沈です。
そんなとき、ふと見上げると謎の梯子が目に入ってきました。
地形図と照合するとかつて道があったと疑定されるラインよりはかなり高い位置なのですが、念のため登って確認してみます。
梯子は鉄製でかなり頑丈なつくりでした。
…が、登った先に何があるというわけもなく、あるのはただただひたすらに斜面。
林道へのショートカットルートかとも思いましたが、この辺りは先に紹介した長い擁壁区間で道に取り付く場所がないので、それも考えられません。
砂防ダム工事用の架設物がそのまま破棄されたものかもしれません。
下へ降りても岩が堆積した河原を歩くだけですし、折角息を切らせて登ったのにすぐ下るのも癪なので、ほんの少しでも痕跡が発見できないかと、しばらく上から観察しながら斜面を下流へと進んでみました。
しかしやはりこれといった収獲も無く、立ちはだかる崩落。
やむを得ずまた河原へと復帰します。
河原はこのような感じで延々崩壊した岩に埋め尽くされています。
たまに直線が見えるとピクっと反応してしまうのですが、これは単なる地層ですね…。
河原が広がり、大千瀬川との出合いが近づいてきたことが感じられました。
そして大千瀬川合流地点の手前にも砂防ダムが。
たしかにこの堆積量を見ていると砂防ダムがなければ大千瀬川へかなりの量の土砂が流入することになるので必要なものではあるのでしょうが、地形図を頼りにかつての徒歩道の痕跡を探って来た者にとっては、ダムによる堆積は無慈悲にしか思えませんでした…。
最後の砂防ダムの下流側には平場があり、道のようにも見えました。しかし、この周辺は、その1、2で紹介したトンネル廃道の下部にあたります。向こう側に大千瀬川が見えており、その3でへつり道を見つけた川角トンネル北側の谷まであと少し未踏破区間が残っているのですが、地形図に比して低い位置であることと、ここまでの行程で全く収獲がなくすっかり心が折れてしまったので、引き返すことにしました。
そういう場所に限って実はこの先に遺構が…という可能性がなくもないので、いずれは再訪したいと思いますが、今回の訪問では完全に戦意喪失です。
ただの崩れた谷を歩く空しさ。
地質的には見どころもあり、いずれはそちらを主目的に来ても良いくらいなのですが、今回の目的は完全に見失っているので、正直なところ足取りは重いものでした…。
高く聳え立つ快適な林道が少し恨めしく感じられます。
往きには気づかなかったへつり道っぽいものを見つけて一応登ってみましたが…。
やはり自然地形のようですね。
もしかしたら道だったのかもしれませんが、もはやそれを確たるものとするだけの痕跡は無いので真相は闇の中、いや、土砂の中です。
谷の分岐まで戻ってきたので、当初の予定通り木橋を渡って林道へショートカットすることにしました。
正直なところ渡り初め一歩目から足裏にフカフカした感触がして嫌な予感がしたのですが、見事に一度踏み抜いてしまいました。幸い川への転落は免れましたが、疲れていたこともあって少々油断してしまったようです。反省です。
ジグザグに木道がつけられてますが、ほぼ腐っているので全く信用できません。
足掛かり程度に利用して間知ブロックの擁壁が手に届くところまで登ってみると…。
コンクリートとトタン屋根で造られたお堂に不動様が祀られていました。
木道の参道が設けられていることから、恐らくもともとは谷下の滝の脇に安置されており、それがかつてそこに徒歩道があったことを偲ばせる唯一の痕跡なのですが、斜度も急で木道の老朽化が進み、そして恐らくこの不動様へお参りをする方々も高齢化が進んでいるでしょうから、林道からアクセスしやすい場所に移設されたのでしょう。
林道に復帰すると、路面にプレートが埋め込まれていました。
不動周辺は最初の方でご紹介した1988(昭和63)年発行の愛知県林道協会「40年のあゆみ」当時の写真では未舗装でしたが、1992(平成4)年度に舗装工事が実施されたようです。
結局今回は、長々と書いた割には何の成果もないただの崩落地歩きになってしまいました。
そこで入手できた資料を元に、少しこの道について考察してみたいと思います。
1988(昭和63)年11月に東栄町下川区の下川史編纂委員会によって編集・発行された「下川邑誌」によると、「村の道 (一)明治以前の道」の項に、文久年間と思われる地図から読み取れる事項として
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横見のびるん沢のビタビタ橋を渡ると山の中に入り登り道を小田の一軒屋に抜ける。ここで左に行けば浦川尻平沢を経て、秋葉への道、右へ入れば小田、竹田の部落を経て海老島に出て鳳来寺道となる
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という記述があり、さらに同「(二)明治前期の道」には、
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下川の地でも、その頃秋葉街道の整備改修が逐次行われ、下田村、川角村を縦断して遠州浦川村に至る道路も利用度が増してきた。(中略) 川角前坂から奈根村小田を経て海老島或は浦川村尻平沢に抜ける道。 (中略) 等々の数ある山道の何れもが、これまで人々の踏み固めたもので時々は野草が足へ纏わりつく様な狭い道であった。
(中略)
明治二十一年、別所街道乗本、河合間の道路も更に改修整備をみ、その翌年には、この路線は大きく本郷まで延長されるに至った。(中略) 尚同じ年、我が下田、川角両村を含める七ケ村が一体となり本郷村として発足することゝなった。国の村政施行令に則ったものである。
こうした情勢の中で、川角の竹内玄洞、下田の佐々木健之介、柳沢寿之吉、奈根の野田藤吉、杉本竹弥らの諸氏相はかり、市場から下田、川角を経て奈根海老島へ至る主幹線の整備を計画した。
川角では村人の賛同が得られ直ちに工事に着手した。程なく三ツ石や西御薗、東御薗からも積極的支援が得られ翌年の明治二十三年十一月、遂に二、五里(一〇粁)に及ぶ歩行路が開設をみ、別所街道に接合することが出来た。この路線の中で川角前坂から奈根村境に至る間は柱状節理の大きな岩脈があり、せんべい石、瓦石などといわれる偏平な石ばかりのところがあり、険坂があり、屈曲が多く、頗る難工事であった。
これらの工事には、県からも助成金が下附され、その額下田地区が三十四円、川角地区三十円であったという。
これまでは小田へ行くにはびるん沢の落合からビタビタ橋を渡り、沢の右岸を一軒家までの坂道を登っていった。
その頃の道形が今でもびるん沢の縁に名残りを止めている。草生の中に石地蔵が静まり返っている。
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と記されています。
下川邑誌 (1988年11月 下川史編纂委員会編 愛知県図書館蔵) 80~83ページより引用
文中に登場する「ビタビタ橋」というのは、細かい説明は本稿では省略しますが非常に簡易な造りで大雨などですぐに流失する規模の橋であり、「びるん沢」というのが今回探索を行った沢と思われます。
初見の地名が多く出てきて位置関係が分かりづらいため、川角から小田を介して海老島までの道筋を赤線で、「下川邑誌」に登場する主要な地名を赤字で補足した地形図を参考に貼っておきます。
国土地理院発行 1:50000 「田口」(昭和48年7月発行) より引用
これらの記述からすると、川角から小田への道はかなりの費用と労苦を伴い整備が行われたようですが、地形図沿いのルートにその痕跡を認めることは殆どできませんでした。
「小田へ行くにはびるん沢の落合からビタビタ橋を渡り、沢の右岸を一軒家までの坂道を登っていた。その頃の道形がいまでもびるん沢の縁に名残を止めている。草生の中に石地蔵が静まり返っている。」
と言う記述からすると、私は現林道小田線が通り、地形図も道筋を記していた左岸を中心に右岸も時折目を配るようにして探索していましたが、もしかすると右岸側をもう少し細かく調べていたら、道形や石地蔵様を見つけることができたかもしれません。また、下川邑誌「(二)明治前期の道」に記された新たな歩行路というのが、沢伝いの道とは別のルートを示唆するような書き方となっていることから、へつり道や片洞門との位置関係を考えると、現在の林道小田線のルートを辿る道筋だったのではないかと読み取ることもできるように思えます。
いずれにしても、本書の発行からも既に25年以上が経過しており、やはり地質の悪い場所、更に砂防ダムなどで状況が大幅に改変された上に30年以上も放棄された徒歩道の痕跡を探る、というのは少々困難だったようです。
川角トンネル旧道の片洞門やへつり道と旧地形図に残された徒歩道の関係、そして下川邑誌の「(二)明治前期の道」に記載された道とそれらが同一のものなのかなど解明できていない点が多く、川角の住民の方に話を伺うことができればもう少し詳しいことが解明できそうですが、生憎今までの探索ではそうした機会に恵まれなかったため、今後も折を見て調べて行きたいと思います。
(了)
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