與良木峠と本郷隧道 その3

その2からの続きです。

本郷側は新旧本郷隧道坑口が仲良く並んでいます。
旧隧道の方はフェンスで厳重に閉鎖されているので、残念ながら内部を探索することはできません。

味わい深い石造の坑門です。

この隧道は、その1その2でご紹介した別所街道與良木峠の難所を解消するために開削されました。
三輪(東栄)から本郷へ至る区間は1918(大正7)年の道路法施行により「県道豊橋本郷線」として指定され、1915(大正4)年に県会議員に選出された地元三輪村池場(現新城市池場)の金田治平氏の尽力により改修に漕ぎ付けられ、1921(大正10)年10月に竣工、12月に開通しました。

平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)によると、延長320m、車道幅員5.4m、有効高3.5mとのこと。

正確な着工年次は資料が見当たらず分からないのですが、愛知県土木部が1979(昭和54)年6月に発行した「建設のあゆみ その1 古き時代の土木写真集」には、「北口坑門 大正8年1月 着手」として下記の工事写真が掲載されています。

建設のあゆみ その1 古き時代の土木写真集(1979年 愛知県土木部刊) 20ページより引用

掘削工事の様子。

建設のあゆみ その1 古き時代の土木写真集(1979年 愛知県土木部刊) 20ページより引用

建設のあゆみ その1 古き時代の土木写真集(1979年 愛知県土木部刊) 20ページより引用

こちらは北口坑門がほぼ完成に近づいている時期の撮影と思われます。
アーチの支保工が設置された状態ですが、現在も当時の状態から変わらずに遺されていることが分かります。

扁額です。

「ほんがうずゐだう 大正十年十二月開通」と右書きで記されています。隧道名は仮名書き。

洞内を見てみましょう。
坑門は全て石造ですが、洞内は、側壁は石造、アーチ部分は煉瓦造であることが分かります。
「建設のあゆみ」に記された注記によると、煉瓦巻の部分は隧道長176間(320m)のうち70間(約127m)と記されており、当初は奥部については素掘りだったのかもしれません。

ズームで更に奥のほうの様子を。

こうしてみると、側壁は明らかに石造ではなくコンクリートになっていますが、煉瓦アーチ部分には煉瓦の模様がうっすらと見えています。
もしかしたらコンクリートではなく白華現象が過度に進んでいるのかもしれません。

 

それでは一旦旧隧道から離れて、新トンネルへ目線を移してみましょう。
新トンネルの坑口手前東側、旧道との分岐部分には、立派な開通記念碑が建立されています。

「新本郷トンネル 開通記念 愛知県知事 鈴木礼治書」

鈴木礼治元知事は、1983(昭和58)年から1999(平成11)年まで4期16年知事を務めた人物で、任期中は愛知万博や中部国際空港、第二東名・名神高速道路などのプロジェクト誘致に尽力しました。

裏面には以下のように記されています。

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旧本郷隧道は別所街道の険阻を極めた与良木峠が開削され爾来六拾有七年。
今時代の変遷と共に新本郷トンネルの開通を祝し、東三河と南信地方とを結ぶ大幹線道路として地域の大発展を祈る。 茲に記念の碑を建立し後世に残すものである。
1989.2.16

愛知県知事 鈴木礼治
愛知県議会議員 竹下喜兵衛
愛知県土木部長 下田修司
愛知県新城土木事務所長 佐々木喜忠
東栄町長 原田畊作
東栄町議会議長 湯浅敬介
施工者 佐藤朝日土木建設共同企業体

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坑門はいたってシンプルなコンクリート造です。
とくにレリーフ状の装飾やコンクリートパネルなどは用いられていません。

銘板です。

1988年6月
事業主体 愛知県
延長 413.00m 巾 6.00m
高 4.50m
施工 佐藤朝日土木建設共同企業体

新トンネルは1988(昭和63)年6月に竣工したようです。延長は線形改良のためか、旧隧道にくらべ100m近く長くなっています。

内部は緩やかなS字カーブを描いていますが、歩道も完備されナトリウムランプも多く設置されているのであまり暗い印象はありません。

続いて南側の坑口です。北側に比べ広々としており、180°印象が異なります。
左側(西側)の道が旧道になります。

新本郷トンネル南側坑門。
垂直壁だった北側とは異なり、なぜか南側にのみ竹割型の構造が採用されています。

扁額は、坑門の脇に設けられています。

旧隧道を目指して旧道を進みます。

しばらくは陽光の差し込む明るい道ですが、少し進むと巨大な岩壁が出現します。
旧本郷隧道開削のために、切り取られたものと思われます。コンクリート覆工と落石防護網で厳重に養生されています。

そして見えてきた旧本郷隧道南側坑口。

坑門は北側が石造なのに対し、こちらはコンクリート製になっています。

前出の「建設のあゆみ」には、1921(大正10)年2月、南側坑口の様子が掲載されています。

建設のあゆみ その1 古き時代の土木写真集(1979年 愛知県土木部刊) 20ページより引用

完成まで8ヶ月ほどの工期を残していますが、まだ坑門はなく支保工が目立ちます。
土砂運搬用にトロッコが利用されていたことがわかります。

そして1921(大正10)年10月の様子です。

建設のあゆみ その1 古き時代の土木写真集(1979年 愛知県土木部刊) 20ページより引用

これを見ると、当初は南側も北側同様坑門は石造であったことが分かります。

銘板に目をやると、「本郷隧道」、「昭和八年三月修繕」と右書きで記されています。こちらの隧道名は漢字表記。そして注目すべきは記された年次が「竣工」ではなく「修繕」とあることです。

これは推測ですが、南側はすぐ傍まで岩壁が迫る険しい立地であることから、崩落など何らかの変状が発生し、コンクリートによって修復されたのではないかと考えられます。

なお、「建設のあゆみ」には、1979(昭和54)年3月撮影の写真が、現況として掲載されています。

建設のあゆみ その1 古き時代の土木写真集(1979年 愛知県土木部刊) 21ページより引用

通行するトラックと隧道の有効幅を考えると、モータリゼーションが急速に進む当時、この隧道はすでに隘路として障害になりつつあったのはないかと思われます。

南側坑口もフェンスで覆われており、内部へ入ることができません。
ただし、北側とは異なり隧道の入口から塞がれているのではなく、フェンスは洞内10mくらいの場所に設置されています。ある程度の広さがあり風雨が凌げる格好のスペースであることからか、現在はゴミ置き場として活用されています。

長年地域の交通を支えた隧道の末路としては少々寂しいですが、入口から封鎖されてただ朽ちて行くよりは、このように活用されているというのは、定期的に人の目も入るため、喜ばしいことかもしれません。

北口、南口ともかなり漏水が目立つのですが、北口よりも南口のほうが状況が悪いのか、南口は西側壁面が数箇所、防護板によって養生されていました。

さらに奥を見てみると、石積み側壁が北口よりも南口のほうが長い距離に渡って施行されているため、煉瓦覆工区間も南口の方が長いようにも思えます。
こうしたことからも、南口の方が地質的に不安定だったと推定することができます。

 

最後に地形図による変遷です。

大日本帝國陸地測量部発行 1:50000 「本郷」(昭和7年5月発行) より引用

実際には既に大正10年に隧道は開通していますが、この昭和7年版は田口鉄道の開通を補入するのが主たる目的で隧道の補入までは手を入れなかったようです。そのためこの部分は明治41年測図、明治44年発行の初版図のままとなっているものと思われます。

前回ご紹介した九十九折れの與良木峠の様子がよくわかります。
また、他にも峠道の西側に聯路、九十九折れをショートカットするような間路の里道記号がありますが、恐らくはいずれも勾配からみて徒歩道程度のものだったと思われます。

大日本帝國陸地測量部発行 1:50000 「田口」(昭和11年7月発行) より引用

昭和11年版の改訂で、ようやく隧道が描画されました。
この段階で西側の里道は残っていますが、九十九折れの今も残る與良木峠旧道は完全に無かったことになってしまっています。

国土地理院発行 1:50000 「田口」(昭和58年12月発行) より引用

現トンネルが開通する前の最後の図版となる昭和58年版。
こちらでは、昭和11年版とは逆に西側の里道が消え、九十九折れの峠道が復活しています。

国土地理院発行 1:50000 「田口」(平成8年4月発行) より引用

そして平成8年発行の現行版。
新旧隧道が仲良く並んで描かれています。もちろん旧隧道は通行ができません。
峠道は軽車道として描かれていますが、赤線で補足した、現在林道よらき線として再整備されつつある奈根側の林道は描かれていません。

本郷隧道は新道にほぼ隣接しており見学もしやすく、大正期建造の廃隧道としては、かなり良い状態で残存しています。
今後も貴重な土木遺産として、末永く保全されることを願って止みません。