田口鉄道(豊橋鉄道田口線) モハ14

愛知県設楽町田口地区の高台にある設楽町奥三河郷土館に、一両の古びた車両が保存されています。
田口鉄道モハ14号です。車両には屋根が掛けられ、定期的に補修もされているようでかなり大切に保存されていることが一目でわかります。今回はこのモハ14号についてご紹介いたします。

田口鉄道は、鳳来寺鉄道の鳳来寺口(現 本長篠)駅と鳳来町の田口との間を結ぶ全長22.6kmの路線で、田口の街の周囲に広がる段戸山系の御料林からの木材運搬を目的として設立されました。
1943(昭和18)年8月に国に戦時買収され、現在のJR東海飯田線の前身となった豊川鉄道、鳳来寺鉄道とは姉妹関係にあった鉄道で、御料林の木材運搬が重要な目的となっていたことから、設立にあたっては姉妹会社である豊川鉄道、鳳来寺鉄道よりも多額の出資が宮内省から行われていました。
田口鉄道の歴史については紆余曲折があり本項でも詳細に言及したいところですが、廃線後道路転用されるなどして遺構が多く現存し、いずれ取り上げる機会もあるかと思いますので割愛し、歴史については車両についてのみ言及いたします。

田口鉄道は、前述の通り鳳来寺鉄道と共に豊川鉄道が設立に関与しており、姉妹関係にある会社でした。そのため車両も共通設計のものが利用され、列車も三社間で直通運転が行われていました。

モハ10形は1925(大正14)年7月の豊川鉄道、鳳来寺鉄道の電化時に製造された車両で、両社分合わせて六両が製造されました。
田口鉄道では開通にあたっていわゆる「川崎造船所型(川造型)」の電3形(後にモハ30形に改番)が二両と電気機関車デキ50形1両の計三両が導入されました。

その後豊川鉄道、鳳来寺鉄道が国により買収された際に、両社の車両は路線と共に買収されましたが、田口鉄道は買収されなかったことから車両も買収されませんでした。しかしながら、車両の共通運用などは国有化後も継続されたため、供出という形でモハ30形が二両とも鉄道省の配属となったことから、その代替として豊川鉄道で使用されていたモハ10形の一両が田口鉄道の運行用に割り当てられました。

そして1951(昭和26)年4月に、国鉄を廃車となったモハ14号、15号の二両が田口鉄道に売却され、正式に田口鉄道の所属車両となったのでした。

大正末期の製造だけに、外板は鉄板で覆われていますが、屋根がやや深く大きめのRのついた正面、床下のトラス棒に木造車両の面影を感じさせます。

行先表示板は「清崎(三河田口)」。
三河田口が括弧書きとなっていますが、これは1965(昭和40)年9月に水害で清崎-三河田口が運休となり、清崎から田口までの間がバス代行となったことによるものです。
結局その後路線は復旧することはなく、追い討ちをかけるように1968(昭和43)年8月には三河海老-清崎間でも水害が発生し、1956(昭和31)年10月に豊橋鉄道に合併され同社田口線となっていた田口鉄道は全線廃止されることになってしまったのでした。

社名と全検表示。
三河海老駅には車庫があり、そこで整備が行われていたことから「海老工」の表記がみられます。

台車です。正確にはわかりませんが形状的にはDT10形と思われます。

足下のレールもさりげなく貴重品。
丸にSマークの官営八幡製鉄所、1928年製の60kgレールです。

形式 モハ10
定員 100
自重 29.50 頓

前出の全検表記と共に後年の補修によるものではありますが、このような表記も正確に再現されています。

反対側へ回って。こちら側は日光の直射を受けないからか、退色が少なく車体色が表側に比べて濃い目に見えます。

方向板は「本長篠」。
「長」の字の省略の仕方が独特で味わいがあります。

 

外観を一周したのでホームに上って車内へと進みます。
まずはホームに設置された三河田口駅の駅名板です。
非常に状態がよいので当時のままのものなのか判然としないのですが、実は直射日光の当るこの裏面はかなり錆と褪色が進行していますので、恐らくは補修は加えられているものの当時のものであると思われます。

車内です。
片側は座席が撤去され、陳列棚になってしまっているのが少々残念なのですが、こちらの棚には往時を物語る貴重な品々が展示されています。

陳列棚全体です。
ドア脇の肘掛の間の椅子部分を上手く利用しているので、こちら側もシートモケットなどが保存されているのであれば、復原が容易にできるような配慮がされているようにも思えます。

まずは田口駅の運賃表がお出迎え。
元々姉妹会社であった飯田線や東京、京都、大阪といった国鉄主要駅だけではなく、間に飯田線を挟んで親会社であった名鉄の各駅との三線連絡の乗車券も発行されていたようです。

展示物はガラスに外光が反射してしまい上手く写せなかったので、全てではなく一部を抜粋してご紹介します。
こちらは出改札関係。硬券棚や発車案内、路線図などが展示されています。

運行関係では、サボやタブレット、駅構内の各案内表示看板や駅名板などが展示されています。

「本長篠-三河田口」のサボ。

三河田口駅と三河大石駅の駅名板。広告主は地元田口の銘酒、関谷酒造の蓬莱泉です。

後部ドア前にはタブレット閉塞機も展示してありました。
手前のものはどの駅で使用されていたものか分かりませんでしたが、奥の閉塞機には「田峰」と記されており、田峯駅で使用されていたことが分かります。

運転台です。
主幹制御機器のカバーは外され、内部構造が観察できるように配慮されています。運転機器は用途が一般には分かりづらいため、それぞれについて説明書きがきちんとなされており、配慮が行き届いています。

スイッチ。それぞれのスイッチの役割を記したプレートが良い味を醸し出しています。

改めて車内を振り返ります。
外見からみた屋根は、やや深めの一重屋根でしたが、内部から見るとダブルルーフのように段差がついていることがわかります。

車体を支えるフレームも車内にむき出しです。
室内灯は一灯だけカバーが外され、中に大二つ、小一つの電球が取り付けられていたことがわかるようになっていました。

この時代のランプカバーは、眺めていると曲線と乳白色の織り成す美しさにため息が出ます。

網棚。もちろん本当の「網」棚です。
棚を支える法杖も鋳物だと思いますが瀟洒なデザインです。

カーテンもこの時期の車両ですから当然鎧戸です。

中間のドア部分です。
現代の通勤車両とはことなり、ドアの両脇には人の立つスペースがなくドア幅一杯に肘掛が設けられており少々狭い印象ですが、このような地方路線では取り立てて問題になるようなこともなかったのでしょう。

両端の肘掛は、中央ドア両脇のそれとは異なり、やや凝ったデザインになっています。

客室から乗務員室を眺めて。
運転台が中央にあるため、乗務員室への扉は向かって右側に寄せられています。

「14」の車号です。よく見るといま書かれている場所の少し上に、以前書かれていた「14」という数字が塗りつぶされているのが薄っすらと浮き出て見えています。
また、数字の下には恐らく形状からして日本車輌の製造銘板が取り付けられていたものと思われますが、取り外されています。
乗務員室扉の横には、担当車掌の名札が差し込まれていました。

こちらが奥三河郷土館の本館です。
大人一名210円の入館料(2015年7月現在)が必要ですが、館内展示は自然や古民具に関わるものが大半で、田口鉄道に関する展示は入口の往時の写真展示のみとなっています。
頼めば現役当時の田口線を写した8ミリフィルムを上映してくださるそうなのですが、そのことを知ったのが帰宅後だったので、残念ながら私は観ることができませんでした。

貴重な当時のカラー写真が展示されています。
(許可を得て撮影しています)

1996(平成8)年に発行された「鳳来町誌 田口鉄道編」より往時の写真を一枚引用させていただきます。
町誌で「田口鉄道編」と、特定の鉄道にのみ焦点を当てて一巻を割くというところからも、この鉄道がいかに地元に愛されていたかを窺い知ることができます。

左からデキ50形、モハ30形、モハ10形です。この他にもごく一時期のみ付随客車としてサハ201という客車が在籍していたようですが、基本的にはこれが田口鉄道を走った型式の全てといっていうでしょう。
鳳来町誌(1996年 飛田紀男・伴野泰弘著 鳳来町教育委員会発行) 写真ページ2ページ目より引用

田口鉄道を走った車輌のうち、モハ30形(後に豊橋鉄道に合併後改番してモ1710形)とデキ50形(同デキ450形)は、田口線廃止後に渥美線へ移籍し、1980年代まで活躍していました。

モ1710形は1986(昭和61)年に豊橋鉄道渥美線初の冷房車となる1900系(元名鉄5200系)が導入された際に代替廃車となり、その時に催されたイベントには訪問したのですが、当時はカメラを持っておらず、その様子は残念ながら手元の記録に残っていません。
しかし、その後1989(平成元)年7月に渥美線高師駅を訪問した際に、廃車留置されているものを撮影したものが残っていたのでご紹介します。

モ1711号。元田口鉄道のモハ30形36号です。
渥美線では長らくストロークリームにスカーレットの帯という豊橋鉄道カラーで走行していましたが、先に述べた廃車イベントにあたり、同時に廃車となった後ろに映っているモ1600形と共に復刻カラーに塗り替えられたため、そのままの状態で留置されていました。

こちらはデキ50形53号→デキ450形451号です。
田口線当時と比べ、前照灯がシールドビーム二灯に変更され、塗装も豊鉄カラーになっていますが、それ以外は前面の砂箱をはじめ面影をよく残していました。
デキ451号は、モ1711(モハ36)より以前、1984(昭和59)年の渥美線貨物廃止時に廃車となっており、撮影時には既にかなり荒廃が進んでしました。

いずれの車輌も解体時期は不明ですが現存しておらず、田口鉄道の車輌としては本項でご紹介したモハ14が唯一の生き残りとなります。幸い郷土資料館にて手厚い保護が受けられているようですので、末永く田口鉄道の歴史を語り継いでもらいたいと思います。

 

場所はこちら。