静岡県道77号川根寸又峡線 朝日トンネル廃道 その1

静岡県道77号川根寸又峡線は、道の駅川根温泉からほど近い島田市川根町笹間渡を基点とし、川根本町の寸又峡温泉を終点とする全長40.5kmの主要地方道です。
もともとは県道223号千頭停車場寸又峡線と県道385号本川根川根線という別の路線でしたが、1994(平成6)年に両者を統合し、主要地方道に昇格したものです。

起点の笹間渡から千頭までの区間は、ほぼ大井川鐵道本線に沿っており、同じく南から千頭を目指す国道473号、362号とは大井川を隔てた左岸をそのルートとしており、国道473号との並行区間は国道よりも整備が進み、快適な二車線路となっています。また千頭近辺では一部国道362号との併用区間も存在しています。

千頭から先も、長島ダムや接岨峡温泉へと向かう県道388号接岨峡線が分岐する奥泉までの区間は国道同様の二車線路となっていますが、分岐するとすぐに、奥大井の宿命ともいえる狭隘な区間が始まります。この奥泉から北の区間は一旦稜線を越えて、下流部で大井川から分岐していた支流の寸又川の流域へと進路をとります。

最奥部に寸又峡温泉という観光地を抱えることから、千頭からは大型の路線バスも頻繁に往来しているのですが、中間には一車線で離合困難なため、対向車両が先に狭隘区間に進入すると停止して待機するよう促す警告灯も数箇所設けられており、運転にはかなりの神経を使います。

寸又峡温泉は皮肉にも金喜老事件というあまり喜ばしくない事件で全国にその名が知れることとなりましたが、その由来は現在寸又峡温泉の位置する大間集落より更に奥にあった、湯山集落に湧出していた湯山温泉に端を発しています。

湯山温泉は明治期に開発されましたが、当時は川下から徒歩で現在の大間ダム湖に掛かる夢の吊橋付近で寸又川の支流である大間川を渡り、更に上流に進んでようやく辿りつくという文字通りの秘湯でした。そんな湯山に変化が訪れたのは1931(昭和6)年の大井川鉄道の開通でした。当時大井川流域では電源開発が活発に行われており、鉄道の開通により資材運搬が容易になったことから大間川にもダムを建造する事になり、1934(昭和9)年に大間ダムが完成し、湯山温泉は三千五百円のダム補償金で水没してしまいました。

そして時は移り、戦後昭和30年代に入ると、一度は消滅した湯山温泉の再掘削が行われ、1957(昭和32)年にボーリングによって湯温43.5℃、毎分540リットルの温泉掘削に成功しました。
しかしながら湯山へはまともな道路もなくそのままでは発展が望めないことから、1962(昭和37)年に大間集落まで3,796mの引湯工事を実施し、ここに現在の寸又峡温泉がスタートを切ることになりました。

この年に、現在の県道77号の前身となる林道大間線が開通し、千頭から始めて自動車による乗り入れが可能となり、温泉発展の礎が築かれることになりました。
しかしながら、もともと林道を出自とし、糸魚川静岡構造線の只中に位置し地質が非常に険しいため、現在もなお主要地方道とはいえ県道の整備は進まず、狭隘な区間の連続する難所となっているのが実情です。

ところが、大半が険しい隘路である県道77号ですが、寸又峡の手前3kmほどの地点に、二車線の非常に高規格な区間があり、ここに栗代橋~朝日トンネル~寸又峡橋という立派な土木構造物が建造されています。

奥大井で分不相応な高規格区間、というと「静岡県道60号 大網トンネル廃道」の項でもご紹介した通り、いわくつきの経緯が存在します。
そこで今回は、県道77号の中でも、この朝日トンネルを中心とした区間についてご紹介したいと思います。


地理調査所発行 1:50,000 「井川」(昭和22年2月発行) より引用

まずは地形図でこのエリアの変遷を辿ってみましょう。
上図は1947(昭和22)年2月地理調査所発行の1:50,000地形図「井川」です。この時点では湯山の温泉再開発はまだ始まっておらず、「小径」記号の歩道が頼りなげに寸又川に沿って伸びています。
また、大間発電所の建造のために富士電力専用軌道として建造され、完工後に帝室林野局名古屋支局千頭出張所に無償譲渡された千頭森林鉄道の軌道も見ることができます。


国土地理院発行 1:50,000 「井川」(昭和36年6月発行) より引用

続いて1961(昭和36)年6月国土地理院発行の1:50,000「井川」。翌年に林道大間線が開通しますが、地形図では聠路(二米以上)」として昭和22年版よりは、やや立派な道として描かれています。
千頭森林鉄道の軌道もまだ当時は現役でした。


国土地理院発行 1:50,000 「井川」(昭和47年4月発行) より引用

そして1972(昭和47)年4月発行の同図では、前年1971(昭和46)年に林道大間線が県道千頭停車場寸又峡線に昇格し、幅員2.5~5.5mの道路として描画されています。
千頭森林鉄道は1968(昭和43)年に廃止されたため、地形図からは姿を消してしまいました。


国土地理院発行 1:25,000 「井川」(平成10年5月発行) より引用

更に時代は進んで1998(平成10)年5月発行の1:25,000地形図「井川」。
縮尺が大きくなった分、地形がより精密に描かれ、1:50,000時代と比べるとより実際の地形に近くなり、かなり細く曲がりくねった崖と川に挟まれた過酷な道であることが分かります。
そして注目すべきは橋の位置です。縮尺が異なるため厳密な比較は出来ませんが、寸又川を渡る大間橋の位置が、昭和47年版1:50,000地形図と平成10年版1:25,000地形図とでは、明らかに上流側へ移動しているのです。

これについては、1992(平成4)年に寸又峡温泉振興会記念誌編集委員会が編集・発行した「寸又峡温泉開湯三十周年記念誌」に、このような記述が見られます。

四十四年五月二十六日東名高速道路が全面開通し、いよいよ関西方面への誘客宣伝を、ということで、意気込んでいた矢先、八月五日には台風七号の襲来により初代大間橋が流失し、大間発電所の吊り橋を使っての観光客の送迎には、左岸から右岸への上り下りの中、お年寄りのお客様をおんぶしたり荷物を背負ったりして、一日に三往復も四往復もした苦労は、今でも忘れられない思い出です。
寸又峡温泉開湯三十周年記念誌(1992年 寸又峡温泉振興会記念誌編集委員会編集・発行) 16ページより引用

当時の航空写真なども比較してみましたが、確かに林道大間線が開通した1962(昭和37)年に撮影された空中写真と、記念誌で初代大間橋が流失したとされる直後の1970(昭和45)年に撮影された空中写真を比較すると、橋と道の位置が異なっているように見えます。


国土地理院空中写真閲覧サービスより引用(1962(昭和37)年10月16日撮影)


国土地理院空中写真閲覧サービスより引用(1970(昭和45)年10月21日撮影)

このことから、大間橋は林道大間線として開通後、1969(昭和44)年8月に初代橋が流失し、その後場所をやや上流に移動して二代目橋が建造されたと推測できます。二代目橋の建造時期は不明ですが、流出から一年後の1970(昭和45)年10月撮影の空中写真には既に橋影が見えることから、速やかに新たな橋が建造されたようです。


地理院地図(国土地理院ウェブサイト)より引用

最後に、現在パソコン上でも閲覧できる地理院地図から最新の図版を引用します。
これまでの川沿いの道が消去され、代わりに長大な朝日トンネルが開通しています。そして二代目大間橋が消え去り、更に上流に橋が移動しています。上流の橋の名は寸又峡橋、下流のものが栗代橋です。下流の栗代橋は、位置は変更されていますが名称は変わっていません。しかし、上流の寸又峡橋はなぜか位置だけでなく名称まで変更されています。

この間に一体何があったのか。

前置きが大変長くなってしまい勿体つけた格好になってしまいましたが、この区間は既に平沼義之(ヨッキれん)氏が2012(平成24)年に「山さ行がねが」で「道路レポート 静岡県道77号川根寸又峡線 朝日トンネル旧道」としてレポートを公開されているので、ご存知の方も多いかと思います。

そこで本稿では、平沼氏が探索した2010(平成22)年4月から5年後の2015(平成27)年5月時点でどれだけ変化しているのか、朝日トンネルを中心とする同区間を上流から下流に向けて実際に歩いてみて、その状況をご紹介したいと思います。

寸又峡温泉から千頭へ向けて下ってゆくと、緩いカーブの先に赤いトラス橋が見えてきます。これが「寸又峡橋」です。現在の県道77号は寸又峡橋で寸又川を一跨ぎにし、そのすぐ先で朝日トンネルへと進んでゆきますが、上述の地形図でも分かる通り、改良前はもう少し下流に「大間橋」という橋が掛けられていました。

現道と旧道の分岐点です。左手寸又峡橋の先には朝日トンネルが口を開けているのがみえます。そして旧道はこの地点では川を渡らず、そのまま寸又川の右岸を下流に向けて進んでいます。

寸又峡橋。大間橋から名前が変更された理由は不明ですが、やはり一大観光地寸又峡温泉の入口ということを意識したのでしょうか。
橋の傍らには、右手には「寸又峡橋」という橋名の標識が、左手には県道77号のヘキサ標識と「一級河川 寸又川 Sumata Riv. 静岡県」の標識が掲げられています。

まずは川を渡らず、そのまま旧道を進みます。
入口には簡易なゲートがありチェーンが掛けられていますが、徒歩での通行には全く支障がなく、また道自体もしっかりとした轍がついているのでそれなりに利用されているようです。

気持ちのよい道が続きます。しかし寸又峡観光を支えるにはかなり貧弱な道幅。
しかし現道にも、舗装こそされているものの、この程度の道幅の区間がまだ多く残されている事が、県道77号の厳しい環境を物語っています。

道の途中にはお地蔵様が祀られていました。
傍らには文字が色あせて判読しづらいですが、「スリップ防止用 砂 島田土木事務所」の看板が残されており、かつてはここに滑り止めの砂が用意されていたことが伺えます。

道は川の流れに忠実に沿って、緩やかなカーブを描いて続きます。
相変わらず未舗装ながら程度の良い道です。

旧道から眺める寸又峡橋。
ワンスパンで寸又川を渡っており、橋の高さも十分に取られているため、これであれば壊滅的な土石流でも押し寄せない限り、冠水や流失といった被害は免れそうです。

そんな立派な現橋を左手に見やりつつ先へ進むと、道はややきつめのカーブを描いており、ガードレールの向こう側を直線状に進んだ先に、道の跡が続いています。

明らかに跡付けされたような不自然なガードレール。
そしてその更に奥にも正面の進路を塞ぐようにガードレールが設置されています。

ここまで来ると、明らかに橋台の跡であることが想像できるかと思います。これが二代目大間橋の右岸側橋台跡です。

道跡の傍らには、「一級河川 寸又川 静岡県」の標識が残されていました。先の写真に写っていた寸又峡橋の傍らの標識と形式は似ていますが、こちらには英文表記の記載がないことから、一世代前のものであることが推測できます。

進路を塞ぐガードレールの向こう側には、左岸側の橋台を眺めることができます。

コンクリート製の橋台が、岩盤にめり込むようにして設けられています。
しかし道幅は現橋のそれとは異なり、推計でも橋の有効幅員は広めに見積もっても3~4mがいいところ、といったものでしょうか。やはり車両の離合は困難だったのではないかと思われます。

橋台から下流側へ進むと、対岸に渡った旧道跡が二代目大間橋から急速に高度を下げて川床に近づいているのが分かります。

先に種明かしをする格好になってしまいますが、対岸の途轍もない岩壁の下にあるコンクリートの塊は、あくまで護岸ではなく旧県道の廃道区間です。川面までの高さは3mもないでしょう。

そしてカーブの頂点にあたる部分が、初代大間橋があったと想定される場所です。

それにしても物凄い岩壁です。ここが1991(平成3)年まで現役で行楽地寸又峡温泉への主要な交通路であったと言われても、にわかに信じることが出来ません。

川は土砂の堆積が非常に進んでおり、初代橋の痕跡を確認することは難しそうだったので、ここで折り返して、いよいよ朝日トンネルの廃道区間へと進路を取ることにします。

寸又峡橋まで戻ってきました。

寸又川の標識の脇には親柱が立っており、植物のレリーフとホンシュウジカと思われる愛らしい像が設けられていました。

実際にはこのあたりでは狩猟対象になっているホンシュウジカよりも、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカのほうがよほど遭遇する確率が高いのですが…。

今回は非常に前置きが長くなってしまいましたが、これらの経緯を踏まえ、次回からはいよいよ廃道区間を探索してゆきます。

(続く)

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