その3からの続きです。
浦の沢隧道北側坑口の西側は広く開けていました。
そしてその先には、未舗装ながら車が十分通行できるほどの幅員の道が続いています。立地的には、1965(昭和40)年開通と記録の残る浦の沢隧道の旧道ということになります。
規模の小さな切り通しというか掘割。
上村川側にはごく僅かに小山が残るのみなので、全面開削してしまっても良かったのではないかとさえ思いますが、地形の改変は必要最低限に留められています。
掘割を越えるとブラインドカーブ。この部分で上村川は大きく湾曲していて浦の沢隧道のある部分は尾根筋の鼻先にあたる格好になっているため、このような線形となっています。
さすがにヘアピンなみのカーブであることからか、カーブ部分は道幅が広く取られ、車両の交差やある程度の長物車の通行にも対応していたように見受けられます。
道は上村川に沿って進みます。前方に「その3」でご紹介したロックシェッドが見えてきました。
ロックシェッドに到達です。しかし先ほどロックシェッド側から見たときから分かっていたことですが、この道との間には3m程度の高低差があります。
隧道直前のロックシェッド。
上部にはかなりの堆積物があるのか植物が繁茂していて、もはや山と区別がつかない状態です。
擁壁部分は石積みで、古さを感じさせます。
一方南側は明らかに柱が太く、擁壁も厚いコンクリートで造られています。もともとの石垣の上から継ぎ足したものと思われますが、この箇所は上村川の流れが直接当るポイントでもあるので、かなり厚みを増したロックシェッドを支えつつ川の浸食を防ぐには、このくらいの厚さで丁度よいのでしょう。
隧道側ロックシェッドの石垣をアップで。石は整形されていませんが、谷積みに近い組み方になっており、強度はそれなりに確保されていそうです。
この道が隧道開削前の旧道なのかは正確には分かりません。後述するように地形図は五万分の一のものしかなく、このような微細な地形はかなり精度が粗いので、決定的な証拠足りえません。
しかし隧道開通前に道がつけられるとすればこの場所をおいて無いので、浦の沢隧道を通す際に、この道は川床に近すぎて大雨の際には冠水などしていたと考えられるため、嵩上げされたと考えるのが自然かもしれません。
さて、川沿いの旧道から浦の沢隧道北側坑口に戻り、先へと進むことにしましょう。
制限速度30kmの規制標識が残存しています。
反対側から隧道坑口方面を眺めて。
しばらく進むと、つい見逃しそうになってしまいそうな、小さなコンクリート橋がありました。
銘板チェックです。銘板は磁器製です。
左岸(南)上流側は「□□ろうさわはし」。
肝心の部分が剥落してしまっており読めませんが、スペース的には二文字くらいあったのではないかと思います。
左岸下流側は「昭和三十□□竣功」。
こちらも肝心な中央部分に大きな穴が空いていて、残念ながら判読でず、かろうじて昭和三十年代の建造であることしか分かりません。
つづいて右岸(北)側下流。
こちらは親柱上部のコンクリートが欠けていて内部が露出していましたが、銘板自体は亀裂はあるものの完全な形で残されており、「馬老沢橋」であることがわかります。
さきほどの左岸上流側のかなの欠落部分がこれで埋まり、この橋は、「うまろうさわはし」あるいは「ばろうさわ(まろうさわ)はし」であることが分かりました。
最後に右岸上両部。後背に砂防堰堤が設けられた馬老沢の水流がみてとれます。かなりの水量がありました。
しかし残念ながら、こちらは親柱そのものが欠落しており、何が書かれていたのは謎となってしまいました。
さらに進むと道はそれまでよりも狭くなっています。両側のガードレールが圧迫感を寄り一層増幅させているように思えます。
そして山側に立つ警戒標識は…。
「50m先 信号機あり」
浦の沢隧道が信号による交互通行規制を行っていた名残がありました。
かつて私がこの道を通って仕事をしていたときに、何度かこの先の隧道手前の路肩で待機させられた記憶が蘇ってきました。
規制標識より北側はそれまでよりも目に見えて登り勾配が急になってきます。幅員は相変わらず狭いまま。
途中には待避スペースが設けられています。
しばらく進むと道幅が広がり、カーブミラーが見えてきました。
カーブミラーの前後には、丸石積みの苔生した石垣が旧道の風情を醸しだしています。
この石垣、よく見ると後背に大きな砂防堰堤と流水路があり、実は大きな谷であることがわかります。平時には水流はないようですが、ここまでの構造物が構築されるということは、豪雨時などにはかなりの水流があるのでしょう。
カーブを過ぎると道幅は再び車一台がやっとの広さになりますが、旧道区間もいよいよ残りあと僅かとなってきます。
浦の沢隧道からここまでの区間は上村川と道の間に植生があり日陰となっていたので道がよく残っていましたが、上村川と直に接して陽光が当る区間に入った途端、路盤が緑に脅かされ始めます。
向万場改良区間の開通から僅か5年。緑の侵食はかなりのスピードで進んでおり、あと数年もすれば、舗装されていることすらわからなくなってしまうのではないでしょうか…。
上村川の堰堤越しに、豆嵐橋と豆嵐トンネルの坑口が見えてきました。
いよいよゴールが近づいてきました。改良区間のトラス橋の大きさと比べると、それまで南信濃と飯田の交通を支えていたこの区間が、いかにか細い一本の糸のようなものであったのかを実感できます。
そして最初の分岐地点に戻ってきました。やはり幅員の広い二車線で、川も山もお構いなしに突き進む改良区間の規模の大きさと、それによる安全性の向上、時間短縮の効果はこの一枚の写真を観るだけでも実感することができます。
最後に地形図で、今回の向万場改良区間の旧道をおさらいしてみましょう。
国土地理院発行 1:50,000 「時又」(昭和47年4月発行) より引用
まずは道路トンネル大鑑で浦の沢隧道が開通されたとされる1965(昭和40)年以前の状況です。図版は昭和47年発行ですが、測量自体は昭和38年に行われており、修正漏れかと思われますが、当時の主要地方道県道8号大鹿水窪線には隧道は描画されていません。
これ以前の図版も明治44年版まで遡って調べてみましたが、やはり隧道の記号は見られませんでした。
正直なところ、五万分の一地形図でのこの周辺の地形描画は、明治版以来かなり誤差があるのですが、それでも記号がないということはやはり浦の沢隧道は「道路トンネル大鑑」の通り1965(昭和40)年の開通と判断してよいと思われます。
国土地理院発行 1:25,000 「上町」(平成15年3月発行)、「上久堅」(平成18年8月発行) より引用
続いて向井万場改良開通以前の二万五千分の一地形図です。
浦の沢隧道脇の旧道のような道も描画されています。図上では南側も現道と接続しているように描画されていますが、おそらくは隧道建設時にロックシェッド部との間に段差が生じており、実際には既にお伝えした通り、地形図のようには接続していません。
地理院地図(国土地理院ウェブサイト)より引用
最後に向井万場改良完成後の現在の状況です。隧道脇の旧道は最新の地理院地図でも描画されています。南側はきちんと途切れて描画されているように見えるのですが、拡大してゆくと接続しているように描画されています。
こういう細かいところまでは、電子化された現在もやはり既存の図版からデータを起すことになるので、このような現状との乖離が生じてしまうのはやむを得ないところでしょうか。
この道については、まだ改良区間がの開通後間もないのため、道の現状としては車両の通行こそできないものの旧道とも廃道とも言える微妙な状況です。
途中には豆嵐橋のすぐ下流部に堰堤がある程度で、他に何か人家や施設があるということもないので、このまま放置されて朽ち行くのか、それとも必要最低限の整備は続けられるのか分かりません。
国道152号では、現在もなお進行形で、このような改良が各所で続けられています。おかげで飯田からでさえ「秘境」と呼ばれていた上村、南信濃への道程も随分と楽になり、時間も短縮されています。
その影には、このように長年にわたり細々としたものながら生命線として地元交通を守り続けたこれらの道が存在していたことを忘れずに、思いを馳せたいものです。
(了)