その1からの続きです。
新段嶺トンネル出口は国道257号と県道389号が交差しており、寒狭川に突き当たる形で丁字路となっています。国道257号はトンネルを抜けた後、進路を直角に北へ折れて設楽町の中心部へ向かいます。南部の新城市から北上してきた県道389号は、この田峯交差点が終点です。
県道389号には田峯交差点の南に稲目トンネルという延長1,510mの直線的なトンネルが存在します。かつて国鉄飯田線本長篠駅と設楽町の田口とを結んでいた田口鉄道(後に豊橋鉄道田口線)の稲目隧道を拡幅転用したものです。
1:50000 田口 昭和35年5月発行 地理調査所 より引用
(明治41年測量 昭和32年第二回要部修正測量)
田口鉄道は、田口周辺に広がる段戸山系の御料林からの木材運搬を目的として設立された鉄道で、1929(昭和4)年に鳳来寺鉄道(現 JR東海 飯田線)の鳳来寺口(現 本長篠)駅-三河海老間が、1932(昭和7)年に三河田口までの全線22.6kmが開通しました。御用材の運搬目的ということから、設立にあたっては姉妹会社であった豊川鉄道、鳳来寺鉄道よりも多額の出資が宮内省から行われていたのが特徴的です。
豊川鉄道、鳳来寺鉄道は、国有化され国鉄飯田線の一部となりましたが、田口鉄道は国有化されずそのまま存続し、1956(昭和31)年に豊橋鉄道に合併されて同社の田口線となりました。
その後1965(昭和40)年9月に末端区間の清崎-三河田口間が、1968(昭和43)年8月には三河海老-清崎間がそれぞれ水害で休止となり、そのまま復活をみることなく1968(昭和43)年9月に全線が廃止されました。
つまり、田峯近辺の県道は旧田口鉄道の廃線跡を転用しており、田峯交差点のすぐ南側の現在段嶺郵便局が存在する辺りには田峯駅が設置されていたのです。
かつては田峯駅から段嶺隧道の上を越えて現在の国道257号に沿う形で森林鉄道も敷設されており、田峯地区は林業の集積拠点としても機能していました。
現在でも旧田峯駅の近隣には設楽森林鉄道田峯鰻沢線の隧道跡が残されており、内部を見学することもできます。
余談ですが、この一帯は「だみね」地区と称されていますが、その表記については、郵便局や町役場窓口センターは「段嶺」、交差点や駅は「田峯」、そして地元の観音様やバス停は「田峰」で、さらに「段嶺」はトンネルでは「だんれい」と読まれています。町誌を調べてみましたが、この表記と読みの揺らぎについては言及おらず、謎のままです。
田口線の路線は田峯駅を出ると寒狭川を第二寒狭川橋梁で左岸へと渡っていました。今回の主役である町道竹桑田清崎呼間線は、県道389号を横断して新桑田橋で寒狭川左岸へと渡ります。新竹桑田橋の袂には町道標識が立てられており、町道であることを主張しています。
かつての田口線第二寒狭川橋梁は、この新竹桑田橋を斜めに横切るように設置されていました。現在でも新竹桑田橋下流の川床には、旧橋梁の橋脚跡を見ることができます。
町道は新竹桑田橋を渡り左岸に達すると、進路を北に変えます。これより先の区間、町道は旧田口鉄道の廃線跡を転用しているのでした。
冒頭でこの町道について「ちょっと曲者である」と記しましたが、実はこの町道、旧国道と廃線跡の用地を繋いで転用したという数奇な出自を持っているのでした。そして曲者ぶりは、旧田口線廃線跡転用区間に入ってから、より一層その色合いを濃くするのでした。
「したらの文化財9 図録・田口線と用具」(1996年3月 設楽町教育委員会)p14 より引用
上の写真二枚は、現在の新竹桑田橋と、開通当時の田口線第二寒狭川橋梁橋脚の写真を比較したものです。こうして見ると、この先の町道の進路がまさに田口線の廃線跡であるということがおわかり頂けるかと思います。
第二寒狭川橋梁を渡るモ37号(1968年8月)
「青春のアルバム 豊橋鉄道田口線 総天然色、連写二眼の元祖!」
(2006年12月 小早川 秀樹) p104 より引用
設楽町の南隣で田口線の始発駅鳳来寺口駅のあった鳳来町の「鳳来町誌 田口鉄道史編」1996(平成8年3月 鳳来町教育委員会)には、田口線廃止に至るまでの、廃止を推進したい豊橋鉄道と、存続を求める鳳来町、設楽町との駆け引きが赤裸々に記されています。
同書によると、一枚岩で存続に向けて運動を続けていた鳳来町と設楽町でしたが、1965(昭和40)年8月の台風で清崎-三河田口間が営業休止に追い込まれると温度差が生じ始めました。復旧が進まない状況に鑑み、起点側で列車も運行されていた鳳来町が、「少しでも良い条件を引き出せる今のうちに廃止を容認する」として条件闘争に舵を切ったのに対し、終点側の設楽町は田口線が唯一の鉄路であるとして存続を主張し、県道路課、名古屋陸運局を交えた四者会談が設定されるなどの紆余曲折が見られました。
協議を重ねた結果、最終的には両町共に廃止を受け容れ、廃線後の用地は両町へ移管されることとなりました。これには問題があり、
『最後までネックとなったのは、鉄道を廃止し財産整理をするためには、帳簿上で無償で両町へ売却することは困難という点であった。この問題は、いったん両町で田口線を買い取ることとし、帳簿上の整理がつき次第、同額を豊鉄から両町へ寄付することで決着がついた。』
「鳳来町誌 田口鉄道史編」(1996年3月 鳳来町教育委員会)p169~p170 より引用
とされています。こうした経緯から田口線の敷地は設楽町へ譲渡されることとなり、現在町道として利用されているのでした。
前置きが長くなってしまいましたが、田口線廃線跡を利用した区間となった町道竹桑田清崎呼間線を、引き続き進んで行きます。
新竹桑田橋を渡ると、町道は緩やかなカーブを描きつつ上流へ向けて川に沿うようなルートを取ります。未舗装ながら轍もしっかり残り、現役町道として活用されていることが窺えます。
新竹桑田橋から200mほど進むと、町道の様子が一気に様変わりします。
道自体は東へ向けて進路を変えており、舗装されて高規格な道路に切り替わっています。
この道路は右手に「林道 与良木田峰線」と記されており、東側にある与良木集落へ向けて進んでいるものと思われます。
対する我が町道は、この地点を境に非常に心許ない状態となります。
正面に立てられた「通行止」の看板。台帳上はあくまで現役の町道という扱いになってはいるものの、今後の行く末が十二分に予想される展開です。
(つづく)