その1からの続きです。
僅か数十メートルだけの廃道残存区間から崩落地へ下りてみました。跡形もなく崩壊しています。
このあたりの地質は花崗岩が主体となっています。
花崗岩は結晶の粒子が大きく、かつ構成鉱物の熱膨張率がそれぞれ異なるため温度変化によって粒子の結合が弱まり、風化しやすいといわれています。さらに、主たる構成鉱物である石英自体は風化しにくい性質をもっているため、風化が進むと密度のばらつきが大きくなり崩壊しやすくなるそうです。
進路には、花崗岩の巨岩が幾重にも横たわっています。
そして花崗岩自体が白っぽいので遠目には区別がしにくいのですが、この岩塊群の中にはかつて道路法面を形成していたはずのコンクリート塊も含まれています。
本来崩落したコンクリート塊は直線的な形状かつ鋭利な角を形成するためにすぐに判別できるものと思いますが、この周辺では磨耗が進んでいてぱっと見ただけでは自然石と見紛う形状のものが多いのです。
見上げると、今にも巨岩がこちらめがけて落ちてきそうな崩落面が広がっています。
この周辺が前回引用した上矢作町史の「海」地名の由来に登場した「アラ(荒)」と呼ばれるところらしく、この辺りが天正地震で崩落したにことよって堰止湖が形成され、上流部に海という地名が発生したといういわくのある場所のようです。
上矢作町では町史とは別に、恵南豪雨の被害を後世に伝えるため、「恵南豪雨災害記録誌」という冊子を2001(平成13)年10月に発行しています。
この資料に、国道418号の被害状況を写した航空写真が掲載されていたので引用します。
恵南豪雨災害記録誌(2001年10月 上矢作町役場企画課編 岐阜県図書館蔵) 6ページ
(第2章:恵南豪雨災害の被害状況 1:災害当初の被害状況) より引用
場所については(達原)としか記載されていませんが、僅かに残存した舗道区間、崩落地、川床の広さなどから判断して、写真右手が海集落、中央部が前回掲載した道路の残存区間、そして左手の崩落が今回ご紹介している崩落地(アラ)と見てよいと思います。
周囲にはこのような花崗岩の巨岩が多数見られるのですが、これらは天正地震の時の崩落によるものだという説もあるようです。
訪問時期は2014(平成26)年の3月初旬でしたが、まだ氷柱が残っていました。
アラの崩落地を下流へ向けて進んで行くと、コンクリート構造物の残骸が徐々に姿を現してきます。
形状からして、擁壁工のようです。足元を掬われたようにして崩壊しています。
おそらく施工当時でもこの周辺の地質については十分な認識がなされ、頑強に構築したものと思いますが、それをあざ笑うようにして、豪雨が基礎の部分もろとも崩し、流してしまったのでしょう。
あまりの規模の崩壊に、言葉もありません。
狭隘な谷間であるがゆえに撤去もままならず、恐らくはこのまま大雨の度に土砂に洗われ、磨耗・破壊が進み、朽ちてゆくことになるのでしょう…。
一部はもはや角が磨耗して、鉄筋がなければ手前の天然の花崗岩と一瞬区別がつかない有り様です。
しばらく周囲を観察していたら、平衡感覚がおかしくなってきました。
わずか一晩の雨が、これほどの厚みを持ったコンクリートを破壊したのです。
しばらくすると、本来の擁壁工の状態が維持されている一帯がありました。
とはいっても、設計・施工時点からすると相当な歪みが生じているものとは思いますが…。
進路を遠眺してみると、再び絶望的な崩落、そしてその先にはガードレールを含めて今までと比べて状態よく路盤が残っていそうな区間が見てとれました。
擁壁は残っていますが、本来それが支えていた筈の地盤は流出し、コンクリートの壁だけが、空しく屹立しています。
擁壁の裏手から、上へ登ってみましょう。
擁壁の裏面には、水抜きパイプが無数に突き出していました。一部は不織布のようなもので覆われ、内部の土砂が水抜きパイプを介して流出し、路盤が沈下するのを防いでいたようです。
擁壁の上部から来た方向(アラ)を振り返って。
こちらからみても、本当にぶっつりと道が失われていること、そしてそれを引き起こしたものが僅か一日で降った雨によるものだ、という自然の圧倒的な力を実感できます。
次回へ続きます。
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