その4からの続きです。
登ってきた地点から、下流側を眺めてみます。
ここでまた路盤は全く失われ、法面と側溝だけが空しく残されています。
少しだけ先へ進んでみましたが、先ほどこの下が中空になっているのを見ているので、これより先に進むのは自重して、来たルートを川床へ戻ります。
今回路盤へのアプローチに使用した崩落の周辺には、擁壁などの遺構がほとんど残されていませんでした。
もともと岩盤が露出している場所なのであまり工作物がなかったのか、あるいは流出したのか…。
そして再び路盤が復活します。
ここから先はあまり被害がなかったようですが、手前には巨大なコンクリート塊が残されていました。
崩れた擁壁の上を辿りながら、破断面へと進みます。
見上げると、側溝がこちらへ向けて突き出していました。
かなりの傾斜ですが、手がかりが多いのでさほど難渋することもなく登ることができました。
ようやく安定した路盤に復帰したところで来た道を見返してみると、その崩落の凄まじさに改めて背筋が凍る思いがしました。
今までは路盤が残存していても舗装がほとんど見えない区間ばかりでしたが、どうやらここから先には致命的な箇所はなさそうな雰囲気です。
看板が放置されています。近寄ってみてみましょう。
「300M先」しか判読できせんでした。他の部分は赤字で書かれていて退色したものと思います。
この先300M先通行止などの警告だったのでしょうか。先ほどの発破注意の看板のあたりまでがちょうど300mほどのように思えるので、もしかしたら発破作業注意を促す看板として立てられていたのかもしれません。
致命的ではないとはいえやはり、道幅の1/3から1/2程度が崩れている箇所が出現しました。
路肩には配水管とみられる径の太いコンクリート管が突き出しています。
崩落ぎりぎりのところで、辛うじてカーブミラーが残されていました。
しばらく進むとガードレールを利用して道が塞がれていました。
トラ柵には「岐阜県恵那建設事務所」と書かれています。
ガードレールによる封鎖柵のすぐ先で路肩が崩落しているので、危険であることは分かると思うのですが、よもやこの先が壊滅的に被災しているということは、この光景からでは窺い知ることができません。
柵より下流側にはタイヤ痕が見られました。たまに管理などで車両が入っているのでしょうか。
ここまできて、ようやく対岸の光景にも目を配る余裕が出てきました。
小さいながらも自然の滝が見られ、氷柱が下がる光景は、これまでの凄惨な光景とは対照的に美しく感じられました。
倒木がありましたが、幹自体は細く、道路自体には直接の影響を及ぼすほどのものではありません。
さらに進むと大規模なコンクリート吹き付けが見えてきました。
どうやら達原トンネルの坑口が近づいてきたようです。
途中の法面に掲示されたプレート。
工第8-1-1号公共道路災害防除工事
工事延長 80.0m
平成5年2月6日 完成
岐阜県
施工者 (資)堀井工務店
と記載されています。
平成5年というと1993年、すなわち東海豪雨の7年前ということになります。
その時期にも災害防除工事が実施されていたということは、やはりこの区間は災害が多く、補修と整備がかなりの頻度で実施されていたことがうかがわれます。
いよいよ坑口です。
旧道と新道との取り付け部分。
路盤に亀裂が入り沈下が始まっているので、このままの状態が続くようであれば、やがて取り付け部分自体も崩れ始めてしまうように思えます。
そしてようやくたどり着いた達原側坑口。
海側の坑口にもあったトンネル情報用の電光掲示板がこちらにも設置されています。
扁額にはこれといった特徴もなく、特に揮毫などもありませんでした。
プレートには
達原トンネル
2003年3月完成
岐阜県
延長 1,015m
復員 6.0m 高 4.5m
施工者 大日本・中島特定建設工事共同企業体
と記されていました。
恵南豪雨から復旧まで、三年半の年月を要したことになります。
これで廃道区間の探索は無事に終了しました。
最後に次回は資料を通じてこの廃道と恵南豪雨災害を振り返ってみたいと思います。
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