「静岡県道60号 大網トンネル廃道」でもご紹介いたしましたが、静岡県道60号南アルプス公園線は、奥大井の畑薙ダムから国道362号藁科街道の静岡市葵区昼居渡との間を結ぶ路線で、井川地区と静岡市街を結ぶ生活路線として、また井川地区から南アルプス登山や畑薙第一、第二ダムへの管理道路としても利用されています。
大井川は古くから水力発電による電源開発の有力地とみられており、明治時代には既に水力発電所の計画が行われていました。
1908(明治41)年には、当時の日英水力電気株式会社の外国人技師ジェームス・ハウエルらによって人跡稀な大井川上流部の調査が行われ、高さ約100m、頂部長約210mのダムが計画・設計されました。この計画は実現しなかったものの、ほぼ現在の井川ダムとほぼ同じ地点であったといわれています。
それから40年以上の時を経て、1951(昭和26)年、中部電力により同地にダムを建造し発電所を建設する計画が本格化しました。対象となった井川地区には当時553戸の世帯があり、うち1/3を超える192戸が水没対象となり、井川村としてはまさに死活問題となったのでした。
1952(昭和27)年4月には第一回交渉会が催されましたが反対が圧倒的に多かったため、井川村では村長を会長とするダム対策委員会を結成して20回以上にわたる協議を重ね、下記のような補償の三大原則を決議しました。
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1. 村民が長年にわたって念願している大日道路(井川~静岡間)をダム工事竣工までに完成すること
2. 村造りを良くして文化の水準を高めること
3. 村民の納得のゆく個人補償の完遂と現在の生活を上廻る民生の安定を計ること
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井川発電所 工事誌(1961年 中部電力株式会社刊 愛知県図書館蔵) 541ページより引用
この三大原則を基本として村側は要求書を提出し、満足な回答が得られなければ工事着手を認めないという強硬な姿勢で中部電力に臨みました。
交渉は難航し、県に関わる内容も含まれることから静岡県も交渉に加わり調整が進められた結果、1953(昭和28)年5月、ようやく妥結されました。
この移転補償の特徴としては、金銭決済のみによるものが主流だった過去の補償形態とは全く異なり、代替地の給与(耕作地のみ)を前提とした新しい村づくりが計画されたことにあります。
それまでの林業や山間で満足な農地が得られないために焼畑農業による稗の栽培などを主体としていた経済基盤から、移転地を活用した新たな営農形体をつくり、それを基本として西山平の広く平坦な農地や宅地の造成、道路、水道などの基盤整備が進められることとなりました。
県道60号は補償の一環として、ダム地点から湛水最上流部の集落である小河内集落までの間を、幅員6m、延長11,219mの幹線道路として敷設されました。また、対岸の左岸側にある岩崎、坂本両集落を結ぶ道として幅員2.7m、延長2,340mの上岩崎坂本道路を造成し、この両路線を結ぶために湖面を横断して建造されたのが井川大橋です。
(井川発電所 工事誌 543ページより)
県道60号との分岐点です。県道からやや下がったところに主塔が見えます。
道路の入口には、
注意
井川大橋の通行について
・総重量2t以上の車両は通行できません
・一台ずつ通行して下さい
・徐行して通行して下さい
と記されています。
県道から橋を眺めます。車両の通行が可能とはいえ、やはり広い湖面に渡された吊橋は少し華奢な印象を見るものに与えます。
その印象を強くしているのは、補剛桁ではないでしょうか。この井川大橋、以前ご紹介した同じ静岡県内の「秋葉橋」同様、補剛桁が三弦トラス構造になっているのです。
橋の袂まで進むと、「2.0t」の規制標識と「歩行者転落注意!!」の補助標識、そして奥手には分岐口でみかけたのと同じ注意看板が掲げられています。
だめおしで主塔にも「必ず一台ずつ渡ること! 総重量2tまで通行可能」というステッカーが貼られています。
右岸側の主塔全体を眺めます。
主塔も橋の規模に比して非常に細身な印象です。
基部は支承となっていました。
前出の「井川発電所 工事誌」の井川大橋の項に、このような記述がみられます。
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(1) 型式および構造の決定
架橋地点は井川ダム湛水池内にあり、また地形急峻なため中間に橋脚を設けることは多額の費用を必要とする。したがって、長支間に架設しうる吊橋を採用したことは当然といえよう。このような長支間の吊橋を設計する際最も問題になるのは風に対する安定性であるが、当初予定した予算では十分な対策を講ずることができなかった。すなわち、風に対する空気力学的安定条件を考えず単に静力学的な風荷重のみを対照とし、補剛桁もまた三角トラスを採用し費用の軽減を計った。
(2)井川大橋設計書
イ 設計条件
(イ) スパン 128@2.000=256.000m
(ロ) 有効幅員 2.500
(ハ) 型式 2ヒンヂ補剛トラス吊橋
(ニ) 荷重 補剛トラスのアンカー主索120kg/m
(ホ) ワイヤーの安全率 主索 2.7(暴風時2.0)
(へ) 床版構造 木材構造
(ト) 撓 0.800より少ない
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井川発電所 工事誌(1961年 中部電力株式会社刊 愛知県図書館蔵) 568ページより引用
移転その他膨大な補償費用が必要なことから本橋梁の設計施工についての予算にも制約があったのか、予算を削れる部分は大胆に削減して建造されたことがうかがえます。「風に対する空気力学的安定条件を考えず」というくだりは、素人目にはかなり不安感を呼ぶものでもあります。
主塔についても可能な限り部材を節約するために、H鋼にしたうえに中抜きまで行っているのでしょうか…。
工事誌の同じページに、挿図として骨組図が掲載されているので下記に引用します。
井川発電所 工事誌(1961年 中部電力株式会社刊 愛知県図書館蔵) 568ページより引用
図面は上流側から見た図となり、左が左岸、右が右岸となります。
右岸に注目すると、主索のアンカー部から3mのところに主塔状に山型になった部分があり、その40m先に主塔があるように描かれています。
左岸側は地山のアンカー部からそのまま主索のたわみがはじまっており、一般的な吊橋では主塔の天端に主索のピークが来ることが多いですが、この橋はそのような構造になっていないことがわかります。
そこで右岸の上部を見てみると、主塔の向こう側の山の上に、さらにコンクリートで建造された一般的な吊橋でよく見掛けるコンクリート造の主塔のようなものが。
これが図面で3mの地点にある主索を受ける構造物でしょう。
このような構造になっているのも、もしかしたら川床に基礎を築いて強固で高い主塔を設けることによる予算の増加を抑えるための工夫だったのかもしれません。
製造銘板。
1957年9月
中部電力株式会社建造
製作 株式会社東京鉄骨橋梁製作所
材質 SS41
塗装表記もありましたが、塗装は1986年3月が最新でそれ以降は行われていないようで、随分と剥がれ落ちてしまい判読できない部分が多いです。
橋梁といえば銘板チェック。
右岸上流側は「井川大橋」。
右岸下流側は「昭和三十二年九月竣功」。
それでは橋を渡ってみましょう。床版は木製で、以前は轍の部分に補強板が渡されていましたが、今回訪問したときには一部を除いて取り払われていました。
さすがに径間256mで有効幅員が2.5mしかないので、とても長く感じられます。
2009(平成21)年の写真です。このころは轍の部分に補強板が渡されていたのがお分かりいただけると思います。
車両での通行には安心感が増すのですが、徒歩で通行する場合はつまづくことがあり、歩きにくかった印象が残っています。
欄干はワイヤー3本のみ。
秋葉橋では金網が張られていたので安心できましたが、こちらはかなり隙間があって危険です。歩いている間にも少し強い風が吹くと煽られそうになりますし、何より歩行中に自動車がやってきたら、幅が2.5mしかないだけに退避するのは相当な恐怖です。
上流を見渡すとこんな感じです。
訪問したのが少し風のある日だったので、正直なところあまり路肩ギリギリを歩く気にはなれませんでした。
左岸側が近づいてきました。
主塔自体は右岸とほぼ同じ構造です。
ただし、右岸では見られたコンクリートの主塔状の門形構造物はこちらには無く、先の骨組図からみても岩盤に埋め込まれアンカーブロックから直接主索が張り出していているようです。
左岸側の主塔を横から。
こちらの道路、上岩線道路は対岸集落を結ぶだけのものなので、前述の通り幅員は県道60号の6mに比して2.7m半分以下の狭いものとなっています。
左岸側の銘板です。うかつにも似たようなアングルで撮影した上にどちらが上流か下流側かメモするのを忘れてしまいましたが、
「いかわおおはし」と、
「昭和三十二年九月竣功」でした。
「大井川」とか「井川湖」という銘板がなく、両岸に竣功銘板が掲示されています。
左岸側は橋台部分に下りることができたので、ちょっと補剛桁の構造を観察します。
とはいえ場所がなく、この写真も転落しないように橋台につかまりながら、カメラを落とさぬように精一杯片手を伸ばして撮ったものなので、危険ですから真似しないで下さい。
安全な市道から。
この位置からでも十分に三弦構造は観察できます。
左岸から右岸方向を。
耐風索がしっかりと張り巡らされています。
こうやって写真に撮って見てみるとスケール感が伝わりにくいので、やはり幅員の割に長さがある分、あまり車が渡れるほどの橋には見えないですね。
右岸側に戻ってきました。
こちらは取り付け部が狭くほぼ直角になっているので、大きめの車両だとちょっと出入りに難渋します。
おそらくこちらの注意看板は、井川大橋に対してのものではなく、ここから合流する県道60号について記したものでしょう。
私は一時、月に数回も畑薙にある赤石温泉白樺荘を訪問していたので県道60号もいやというほど通っており、井川大橋自体も観光ついでに自動車や徒歩で渡橋したことも数回あったのですが、まさか補剛桁が三弦構造だとは思わず、気づいたのはTwitterでフォローさせて頂いている方のツイートがきっかけでした。
灯台下暗しとはこのことだな、と痛感した次第です。
[追記]
2015年5月の再訪時に車載動画を撮影しました。雰囲気だけでもお伝えできればと思います。
最後になりましたが、工事誌にはいくつかの補剛桁のユニットが天地を逆に仮置きされて組み立てを待っている、貴重な建造途中の写真が掲載されていました。
それを引用して、この稿の締めとさせていただきます。
井川発電所 工事誌(1961年 中部電力株式会社刊 愛知県図書館蔵) 568ページより引用
場所はこちら。