以前ご紹介した「彩雲橋」を通る市道は、そのまま木曽川沿いに濃尾平野を臨む犬山城の建つ丘の下を縫うように進みます。
市道は彩雲橋から木曽川下流へ向けての一方通行で、しばらく崖と川に挟まれた狭い道を進みます。するとやがて進路を阻むような岩壁が現れ、そこに隧道が穿たれているのが見えてきます。
隧道自体はさほど長いものではありませんが、カーブの頂点にあたり幅員も狭いため、かなり見通しは悪くなっています。坑口は素掘りのままで、坑門や扁額などは見られません。
実はこの隧道、元々は市道など一般に供用される道路として開鑿されたものではありませんでした。
1879(明治12)年に名古屋市内でコレラ患者が発生して以降、名古屋市では幾度もコレラが流行し、腸チフスや赤痢の類は流行が恒常的になっていました。これは元々名古屋市内で利用していた井戸水の水源自体が、東部の丘陵地の僅かな伏流水以外は雨水や汚水が低湿地に浸透したものだったためで、衛生状態が悪化するのは当然の状態でした。
そうした状況下、名古屋市では急速な人口増加を背景に、衛生的で安全な飲料水の不足のみならず、火災件数の増加による防火用水の不足も深刻化していました。そこに1891(明治24)年10月の濃尾地震も重なったため、その復興も兼ねて上水道施設の整備が急務との声が高まってきました。
しかしながら財政面などから計画はなかなか進まず、紆余曲折を経てようやく1906(明治39)年6月に市議会で水道・下水道の建設について議決がなされ、1908(明治41)年2月に内務大臣より水道敷設の許可が下り、事業が開始されました。
内務省衛生局の雇技師であった英国人のW.K.バルトン氏が立案した原計画では、送水圧力を確保する観点から水源は名古屋市内から60~70mの比高差のある入鹿池が選定されていました。
しかし実施段階に至り、愛知県技師上田敏郎氏により、入鹿池の流域面積、水量では将来にわたって安定的な水源を確保することが困難なため、一年中安定的な水量が確保でき、河床が強固な岩盤であり洪水時の混濁も少ない木曽川に水源地が選定しなおされ、犬山城下に取入口を設け、ここから愛知郡東山村(現名古屋市千種区鍋屋上野町)の浄水場まで隧道、暗渠、築堤などを駆使して送水管を通す計画に改められ、1910(明治43)年より工事に着手されました。
この隧道は、その際に水門と取水場とを結ぶ管理道路として開鑿されたものだったのです。
「名古屋市水道五十年史」に、当時の図面が収録されているので引用いたします。
「点検用トンネル 長 22.3 巾 2.5 高 2.4」と記されているのがこの隧道です。
縦断面図
平面図
名古屋市水道五十年史 (1964年 名古屋市水道局編 愛知県図書館蔵)
51ページより引用
図面を見ると分かるとおり、もともとはあくまで取水場から水門を管理するためだけに設けられていたため、隧道出口で道は途絶えており、現在のように彩雲橋まで続く道は存在していませんでした。
取水部の工事は1911(明治44)年に開始され、今回取り上げている作業用隧道も含め1914(大正3)年3月末には全ての工事が完工、そして名古屋市水道は同年9月より給水を開始し、2014(平成26)年9月をもって100年の歴史を重ねるに至りました。
創設当時の写真も「五十年史」に掲載されていたので、現在の写真と対比してみましょう。
名古屋市水道五十年史 (1964年 名古屋市水道局編 愛知県図書館蔵)
37ページより引用
写真が薄暗く分かりづらいかと思いますが、川面に第一水門、そしてその奥に第二水門の石垣、さらにその奥に点検用隧道が口を開けているのが分かります。
続いて現在の第一水門の状況。
残念ながら木々に阻まれて隧道の坑口は見えませんが、第一、第二両水門の石垣に往時の面影が残ります。
この水門は、その後の上流部での水力発電所ダム建設を原因とする土砂流入量の減少による河床の低下で取水量が減少したことや、すぐ上流で合流する彩雲橋の架かる郷瀬川の水質が犬山の市街化進展に伴い悪化し、生活汚水が流入するようになったことから、1929(昭和4)年から1932(昭和7)年にかけての第4期拡張工事の一環として犬山橋の上流600mほどの地点に移設され、廃止されました。
第一水門跡。現在も水道局の管理地内にあるため立ち入ることはできませんが、隧道坑口のフェンス越しに今でもかつての取水口跡を観察することができます。
第二水門のローラーゲートも残されています。
背景の説明が長くなってしまいましたが、主役の隧道に戻りましょう。
犬山城周辺の地層はチャートと呼ばれる堆積岩の一種で形成されています。二酸化珪素(石英)を多く含むプランクトンや海綿動物の殻や骨片が海底に堆積したもので、非常に細粒で緻密な硬い岩盤となっています。
三畳紀からジュラ紀にかけて形成されたとも言われており、層状の露頭は幅約100mほどあり、それらが堆積して地層を形成するのには、6,000万年程の年月を要したとみられています。
そのため、隧道は手掘りのままコンクリートの吹きつけなども無く、ほぼ掘削したままの状態を保っているようです。
隧道内部には見事な層状チャートの露頭が広がります。隧道ファンのみならず、地質学を研究されている方にとっても、非常に興味深い空間と言ってよいのではないでしょうか。
とにかく見事の一言。
下流側坑口周辺にかけても、地層が極めて良好な状態で観察できます。
下流側の坑口です。こちら側も掘られたままの状態で、坑門や扁額はありません。出自が管理用作業道ですから、これらが設けられていないのもやむを得ないところでしようか。
ここでも幾重にも積み重なった地層に、地球規模の悠久の歴史を感じます。
隧道出口から先は旧取水場施設などがあったため用地に余裕があり、市道も幅員が広がり二車線となりますが、隧道は上流側からの一方通行なので、逆走防止のために進入禁止の道路標識が目立つように三基も掲げられています。
隧道の傍らには、「名古屋水道給水開始50年記念碑」が建立されています。
「みなもとは 木曽の山々 遠霞」の句と共に、当時の名古屋市長、杉戸清氏による由来を記された銘板が掲げられています。
冒頭に掲載した「名古屋市水道五十年史」から引用した図面や写真の通り、開鑿当時はあくまで水道施設に過ぎず一般的な意味での「道路」として機能していなかったこの隧道が、上流側と通行可能な状態になったのがいつごろなのか、とても気になります。
彩雲橋の竣工が1929(昭和4)年なので、その時期とみるのが自然でしょうが、念のために五万分の一地形図で変遷を追ってみましょう。
まずは1920(大正13)年版から。図中の「名古屋水道閘」が名古屋市水道の取水口を示しています。この時点では、当然1929(昭和4)年架橋の彩雲橋はもちろん、1921(大正14)年架橋の犬山橋も描画されていません。
五万分の一地形図「岐阜」
(参謀本部陸地測量部(現国土交通省国土地理院)明治三十九年測圖 大正九年第二回修正側圖 大正十三年三月二十五日發行 愛知県図書館蔵)より引用
続いて1929(昭和4)年版。こちらでは「昭和二年鐵道補入」とある通り、1926(大正15)年に既に開通済みの犬山橋と、それによって犬山から新鵜沼まで延伸された名鉄犬山線については記載されましたが、同年三月竣工の彩雲橋は修正が間に合わず、相変わらず名古屋水道閘と上流側は郷瀬川に隔たれたままとなっています。
五万分の一地形図「岐阜」
(参謀本部陸地測量部(現国土交通省国土地理院)明治三十九年測圖 大正九年第二回修正側圖 昭和二年鐵道補入 昭和四年五月三十日發行 愛知県図書館蔵)より引用
1935(昭和10)年版になると、郷瀬川に橋の記号が見え、川に沿って町村道の記号が描かれていますが、作図時の漏れからか、なぜか隧道の記号が見当たりません。
五万分の一地形図「岐阜」
(参謀本部陸地測量部(現国土交通省国土地理院)明治二十九年測圖之縮圖及明治三十九年測圖 大正九年第二回修正測圖 昭和七年第三回修正測圖及修正測圖之縮圖 昭和十年七月三十日發行 愛知県図書館蔵)より引用
そしてようやく戦後1952(昭和27)年版でこの箇所が修正されて隧道記号が追加され、現況と整合する図版になりました。
五万分の一地形図「岐阜」
(建設省地理調査所(現国土交通省国土地理院)明治二十四年測圖之縮圖及明治三十九年測圖 昭和二十二年第四回修正測圖 同二十七年資料修正(行政・鐵道) 昭和二十七年七月三十日發行 愛知県図書館蔵)より引用
地形図上では、隧道記号はないものの、昭和四年から十年の間に道が開通したということが分かりますが、やはり地形図では改訂の頻度や修正内容の漏れ、誤りなどもあることから、年単位での特定は難しいのが実情です。
続いて、前回「彩雲橋」の項で引用した、吉田初三郎によって描かれた「彩雲閣御案内」を検証してみます。
彩雲橋の項でご紹介した1929(昭和4)年版では橋と道が一続きに描かれていますが、前の版にあたる1927(昭和2)年版では橋は描かれているものの、場所的にも形状的にも現在のそれとは異なり、船着場のような場所で道が途絶えているように描かれているのです。
彩雲閣御案内(1929(昭和4)年発行)より
(平成26年度稲沢市図書館企画展「-鳥瞰図の名手・吉田初三郎が招く- 【全国私鉄沿線名所めぐり】」 出展の伊藤利春氏所蔵展示物(複写)を許可を得て撮影)
彩雲閣御案内(1927(昭和2)年発行)より
名古屋市博物館特別展「NIPPONパノラマ大紀行 ~吉田初三郎のえがいた大正・昭和~」図録(2014年7月 名古屋市博物館編)
31ページより引用
彩雲橋の銘板には「昭和四年三月竣工」とあり、鳥瞰図も1927(昭和2)年の版に対してわずか二年後の1929(昭和4)年版で修正が加えられていること、その年から取水口の移設を伴う名古屋市水道の第4期拡張工事が開始されていることからみても、やはり彩雲橋が架橋された1929(昭和4)年に道路が開通したと考えてよさそうです。
あくまで推測に過ぎませんが、もしかしたらこの道路の築造は、取水口移設に伴う工事資材の運搬などを目的としていたのかもしれません。
いずれにしても、彩雲橋と素掘り隧道、水道取入口跡が共存する土木的に非常に興味深い市道が国宝犬山城の城下にひっそりと佇んでいるというのも、なかなか面白みが感じらるのではないでしょうか。
場所はこちら