岐阜県八百津町の中心部から、丸山ダムへ向けて木曽川右岸を町道(旧国道418号)で進むと、油皆洞集落の先にこのような山間の長閑な道には不釣合いとも思える頑強な鉄橋が見えてきます。これが油皆洞橋です。
かなり前の記事(八百津界隈ちょこっと巡回。)で少しだけこの橋に触れていますが、今回はじっくりとこの橋に絞ってご紹介したいと思います。
木曽川の支流である油皆洞川に架橋されたこの橋は、明治期に鉄道橋として多く導入されたイギリス製のポニーワーレントラス橋を転用したものだそうで、町の資料によると1885(明治18)年頃に製造されたものとされています。
この形態のポニーワーレントラス橋はもともとの造りがかなりしっかりしていたからか、博物館明治村の旧六郷川橋梁や長野電鉄小布施駅構内の旧松川鉄橋のように保存されているものだけでなく、この油皆洞橋のように製造から100年以上を経て、未だに現役で使用されているものも各地に残されています。
石造の重厚な親柱をチェック。
右岸上流側の銘板は「油皆洞川」。
右岸下流側の銘板は「ゆかいどうはし」。
丸山側からの光景。
以前実測した際、路盤の幅は3.8mほどありましたが、さすがに車両のすれ違いは困難で、さらにかつて国道時代にはダム関係の大型車両が通行する機会も多かったからか、上流側には桁橋の人道橋が別に設けられています。
トラス部分を。
この油皆洞川はかなり谷の切れ込みが深く、両岸とも非常に斜度がきつくなっています。そのため、残念ながら外側から橋の全体像を眺められる場所というものがなく、内側からしか観察ができません。
そうした地形が、頑強でワンスパンで谷を跨げるトラス鉄橋の転用という選択につながったのかもしれません。
左岸上流側の銘板は「油皆洞橋」。
左岸下流の銘板は「昭和廿九年十二月竣功」。
左岸下流側の橋台部分を上から見下ろします。
非常に深い谷であることがお分かりいただけると思います。
トラスはピン結合になっています。
このタイプのポニートラスは端部が曲面に処理されていて柔和な印象があり、個人的には様々な態様の鉄橋の中でも好きな形式のひとつです。
斜材は内部が菱形に組んであります。
逞しいピンの連続する光景。
右岸下流側の下手に回り込んで橋台部分を見てみます。
この地点は非常に傾斜が急で一歩間違えると滑落の危険があるので、観察される方は十分にご注意下さい。
右岸上流側から橋の下へ回りこめそうだったので、急傾斜を慎重に下って橋台の下へやってきました。こちらも大変危険ですので、立ち入りは推奨いたしません。
見上げるとポニートラスと桁橋の人道橋が仲良く並んでいます。
横桁は魚腹形になっています。
油皆洞橋への転用にあたり、元の鉄道橋から幅を詰めたらしいのですが、下から観察した限りはどこかで切断や溶着したような形跡は見当たりませんでした。
下弦材の結合部は八角形の大きなプレート。夥しい数のリベットが打ち込まれています。
左岸側の一番端の横桁に塗装表記がありました。
最後に塗装されたのは1997(平成9)年で、既に15年以上が経過しています。
八百津町では2009(平成21)年に「橋梁長寿命化修繕計画」を策定しており、「今後10年間を目処に修繕を計画している橋梁」(2009年当時)の中に油皆洞橋もリストアップされているため、順調に行けば数年以内には再整備が施されるものと思われます。
「油皆洞川は切れ込みが深い」と前半で述べましたが、右岸側からみた左岸側橋台はこのような状況になっています。なかなかの絶景です。
傾斜としては若干右岸側の方が緩く、竹が生えていて手掛かりが多かったので橋の下まで到達できましたが、左岸側は橋台下部に近づくのはかなり厳しい感じです。
上流側には鬱蒼とした谷間にちょっとした滝も見え、なかなかに良い景観なのですが、橋台のコンクリート基礎が露出していない部分がかなり浸食されているようにも見え、少々心配です。
右岸上流側に小道があったので、進んでみたら小さな祠が二柱、油皆洞橋を見つめるように祀られていました。
油皆洞橋の安全を守っているのでしょうか…。
いずれにしても、歴史的に非常に価値の高い橋ですので、今後とも末永く保全、活用されることを願うばかりです。
場所はこちら