火の見櫓図鑑

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火の見櫓の歴史

江戸期

江戸時代の火の見梯子模型

江戸時代の火の見梯子模型
(東京消防庁 消防博物館展示品)

 わが国においては、建築物は木造を中心として発達してきたため、火災が発生した場合には延焼の恐れがある。中でも明暦3(1657)年の大火では、江戸城天守閣はじめ江戸城下の町々の大半が焼失するという極めて甚大な被害を受けた。そのため、一度火災が発生すると大災害となる可能性が非常に高いことから、防火、初期消火は重要な課題であった。

 そこで江戸幕府では万治元(1658)年、定火消(江戸中定火之番)を設けた。飯田橋、市ヶ谷、御茶ノ水、麹町の四箇所に火消役の屋敷を造り、そこに火災監視を目的として建設した望楼が、火の見櫓の始まりである。

 町人地における消防組織は、遅れて享保3(1718)年に大岡越前守忠相により「町火消」として組織された。これらにも高さなどに制約はあるものの、定火消同様火の見櫓を設ける事が許された。また、櫓のない町には、自身番(自警団の屯所)の屋根上に梯子を立てて半鐘を吊るしただけの「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設けられた。

 これらの火の見櫓は木造黒塗りで、最も格が高い定火消の火の見櫓で高さがおよそ五丈(約15m)、町火消の火の見櫓で三丈(約9m)以下とされていた。

明治以降

黒石市消防団第三分団第三消防部屯所
大正13年建設(青森県重宝)

 明治期に入っても暫くの間は江戸期のままの消防組織を踏襲していたが、明治27(1894)年に「消防組規則」が制定され、府県知事が運営する公設の消防組織として全国的に平準化が図られる事になった。この際、消防組には火の見櫓が設けられるものとして定められ、全国で櫓の建造が進んだ。

 明治初期は江戸期同様火の見櫓も木造であったが、明治後期には早くも鉄造の火の見櫓が建造されはじめている。昭和に入り、戦時体制下では消防組は警防団に改組され、防火のみならず爆撃など防空消火をも想定した組織へと改組されてゆく。火の見櫓も火災警報だけではなく空襲警報にも用いられる事となったが、戦況の悪化により金属供出で解体された火の見櫓も数多くあったと言われる。

現在

登録有形文化財に指定された岐阜県各務原市前野町の火の見櫓

岐阜県各務原市前野町の火の見櫓
昭和12年建設(登録有形文化財)

 戦後は警防団が廃止され、昭和22(1947)年の消防団令により市町村に消防団の設置が義務付けられたことから、全国に消防団が組織された。消防団の組織化に伴い、昭和20年代~30年代を中心に各地で火の見櫓の建設が進められた。

 現存する櫓の大半はこの時期に建造されたものであるが、電話による119番通報の普及や防災無線、警報システムの発達により、近年では本来の防火目的での利用はほぼ見られず、防災無線の放送や消防用ホースの乾燥などに用いられている場合が多い。櫓自体の老朽化も進んでいることから、現在急速に撤去が進んでいるのが実情である。